トモの世界
私が言うと、また南波は絶句した。
「索敵、大丈夫か」
思わず言うと、小さく頷いた。
「絵を、音声化できるか」
「……できない」
「そういうことだ。一枚の絵には、きちんと意味があるわけだ。長々と文章を書くよりも、明確にイメージが伝わるときもある」
「その、ハルマヘラの言語は、絵と同じだって言うのか」
「極端ないい方だが、そういうことなんだよ。グリマーが導き出した結論は、そういうことなんだ」
「そんなことがあり得るのか」
「画家は、異文化、異言語であっても、絵を描くことで通じ合えるそうだからな」
「信じられないな」
「信じられないことがふつうにあるのが、この世界だっていうことを、私はなんとなく言いたかったんだ。以上、終わり」
日が、暮れた。
数瞬、私と南波のあいだに沈黙が挟まった。
空沼川が流れる音が聞こえた。ゆっくりと。水深があるため、外洋から艦艇がそのまま入ってこられる。だから、縫高町鉄道橋も区間高速の吊り橋も、通過する船の最低高に合わせてある。重巡洋艦だって入港できる。港を再建すればの話だ。
「……来るぞ」
南波が低く言い、窓から離れた。
「八九式が来る」
南波のCIDSには彼らがすでに見えているだろう。そして、パイロットからはすでに我々が見えているはずだ。私たちの体内に埋め込まれたパーソナルマーカーは、血液から有機器官の如く栄養分を摂り、それを電源にする。最低稼働保証時間、一〇年。除隊してもなお、摘出しなければ、私たちは国防省……いや内務省か、彼らに追尾される。仕方ない。我々自身が軍事機密なのだから。具現化した機密。発声できない言語のように。
「伏せろ。というか、遮蔽物の影へ」
南波が言う。階級は南波が上。年齢は私が上。不思議な関係。
「もっと奥だ……女の子は下がってな」
南波が数時間ぶりにCIDSを上げ、瞳を見せた。ギラギラしていた。一週間前、空挺降下したときと変わらず、もう三日もまともな食事を取らず、睡眠も細切れにしかとっていないにもかかわらず。私は南波に言われるまま、数メートル下がり、コンクリートの壁に身を隠した。
「目標を指示する」
南波はそう言って、私の自動小銃を構え、目標物にそれぞれマーキングを行っている。目標をCIDSとリンクした光学照準器にとらえて、ロック・オンさせると引き金を引く。誘導弾の目標指示に使用するイルミネーターモードに切り替えているので、弾薬を撃発させるシアは落ちない。破壊すべき目標の位置や形状を上空の戦闘機に送る。パイロットは考える必要はない。シュートキューに従って、機体を制御、操縦桿のレリーズを引けばいい。
八九式支援戦闘機は急速に接近しているはずだが、爆音はまったく聞こえない。超音速巡航(スーパークルーズ)をしているからだ。
「来た。姉さん(・・・)、目、閉じて耳ふさいで口開けてるか!」
叩きつけるような爆音が響き渡る。まるで野戦砲の砲撃のような音。超音速機が上空を通過するときの独特の衝撃波。間髪をいれずにすさまじい閃光が目を閉じているのにはっきりと見える。そして爆発。私たちが避難した元病院の建物が揺さぶられる。無数の爆発が身体を突きあげるように響き渡り、それに混じって甲高い金属音のような嫌な音がふさいだ耳を打つ。八九式支援戦闘機が投下した自己鍛造爆弾GBU-8が目標に殺到するときの残響だ。弾頭自体も超音速だから、命中してから飛翔音が聞こえる仕掛けだ。目を開いていれば、四機の八九式支援戦闘機が投下した自己鍛造爆弾GBU-8が、寸胴の弾体の側面を急に広げ、空中で無数の子爆弾を分離するさまが見えただろう。分離した無数の子爆弾は安定板を展開、その瞬間、町は壮絶な、まさに断末魔の叫び声に包まれる。この叫びは「癇癪娘」とも呼ばれ、敵の市民や兵士、さらには友軍の兵士たちからも忌み嫌われていると聞く。
「姉さん、無事か!? 生きてるか!?」
私は返事をせず、目を閉じて、しかし、身体に響いてくる爆発音を、その瞬間に喪われるであろう数十の兵士たちの命を、ほんの少しだけ哀れんだ。
いくつの言葉が散っただろう。そう思って、それを弔いにした。
いつか私が弔われるのだろうか。
でも、私はこんな場所では、死なないことにしていた。なぜならここは、天国の入口ではないから。私が北方戦域に赴くきっかけになったイメージが、不意に私の閉じた瞼の裏によぎる。一面の白い綿毛のような花を揺らす、北洋州の初夏の湿原の光景が。
引き続き爆音。
巨大な生き物が死にかけて悲鳴をあげているような声は、あの大きな鉄橋が落ちる音だろう。
爆音。
それはただの音で、意思も何も感じない。だから私にはそれらの爆音は言葉には聞こえなかった。
二、
国道といっても、簡易舗装に近い粗末な道路だった。近接航空支援で縫高町の敵勢力は壊滅し、南波のCIDSに敵脅威を示す赤のマーカーは表示されなくなった。そして私たちは、廃墟と化した崩れかけの元病院から脱出した。町を脱出するとき、南波は友軍の戦死者が携えていた自動小銃を無言の祈りを一瞬たむけて、受け継いだ。私が持つ一丁の4716自動小銃だけではさすがに心もとなかったのだ。
国道に出た私たちは、月明かりの中をくだらない話を交えながら、そして休憩ももちろん交えて南へと歩いた。味方の部隊と合流するためだ。
「いちばん近い拠点まではどれくらいなんだ、」
南波に問うてみる。もうすっかり夜は明けている。特殊部隊隊員御用達、わが国が誇る世界的時計メーカー・古峨精計社製のごつい腕時計の標示は、すでに午前六時。空は雲に覆われていて、西の空には鉛色の雨雲がどろどろと渦巻いていた。航空機や車両の音は聞こえない。国道はこのまま南へ、港湾都市である高泊(たかどまり)へ向かう。
「歩いたら半日以上かかるだろうな。どこかで足を調達しないとな」
一時間ほど前、国道沿いに小さな温室を併設した農家を見つけた。建物に全く損傷はなかったが、住人はいなかった。敵……北方会議同盟連邦(ルーシ)軍の侵攻を察知した政府の通達で、この地方全域の民間人は、友軍の戦線よりさらに南へ避難していることになっている。
農家の温室にはトマトが鈴成りだった。温度や湿度管理、そして水や養分の補充など、すべて自動化されている。悪いとは思ったが、鈴成りのトマトをいただいた。二人で十個ずつ程度食べたところで、後から後から次々に果実は実ってくるだろう。生産性を極限まで高めたシステムなのだ。
私たちはトマトを本当に二人で二十個近く食べた。本当に旨かった。皮は固いが身が詰まっていて、ずっしりと重い。かじると歯ごたえがあり、しかしびっしりと子房室にはジェリー状の種と果汁が満ち、酸味も甘みも強く、最初の二、三個は一瞬で胃に収ってしまった。満たされた。その一言に尽き、食べ終わった私たちはどちらともなく顔を見合わせ、作戦中初めて笑顔を見せ合ったのだった。
国道はまっすぐ続く。あたりはシェルコヴニコフ海が近く、平野と湿地が広く続く。国道は保呂那(ほろな)川に沿っている。水の匂いがした。