トモの世界
蚊が私の首筋に止まった感触があったが、薬草の主成分と化学合成した殺虫成分を希釈させた虫除けの威力に、蚊は私の生き血を吸うこともなく飛び去った。夏休みのキャンプのとき、これが欲しかったと思う。
「入地准尉、」
「なんだ、蓮見」
「姉さんも、撃てるよね……?」
「当り前だ」
「きっと、間違いなく、私も撃つと思う。そして、姉さんが言うように、帰ってくると思う」
「お前だけじゃない。南波少尉も、桐生もそうだ」
「うん。……でも、もし私が撃てなくなっても、姉さんは私の代わりに引き金を引いてくれると思う」
私は振り返る。蓮見の目はCIDSに覆われていて見えない。私はいま、蓮見の表情を見たいと思った。どんな目で私を見ているのか知りたいと思った。
私は、躊躇なく引き金を引けるのか。
引けるだろう。
いままでもそうしてきたからだ。私自身が生き続けるために。
任務で引き金を引けないという状況は、すなわち次の瞬間、自分の生命活動が敵勢力によって止められてしまうことを意味する。だから私は撃てる。いや、撃つ。何の躊躇もなく。シンプルだ。森の中で鹿を撃つより、そこに意味を見出す必要がない。
「……蓮見、だから、今回の仕事も、疑問を感じちゃいけないのさ」
「けど姉さん、」
「なんだ」
「独裁者なら、……私は確かに撃てると思う。いや、撃たなきゃって素直に思えるよ」
「パイロットは撃てないか」
「いや、……撃つよ」
「何が問題だ」
「……動機の問題なんだろうさ」
南波が言う。
「いいか、蓮見。独裁者もパイロットも変わらない。友軍(フレンドリー)を容赦なく殺すという点では同じだ。パイロットの方がたちが悪いかもしれん。敵の指導者は直接味方に引き金を引かないからな。けど、敵軍のパイロットは違う。爆弾を雨あられ、俺たちの国に落とすかもしれん。お前の家族も友達も皆殺しにするかもしれん。……パイロットだから、指導者だから、そんなのは差別だぜ。敵は敵だ。等しく敵だ。俺たちの目標は全員敵だ。いいか、外国人は外国語を覚えて話すんじゃないんだ。生まれた瞬間、 『オギャー』ってのがもう外国語なんだよ。差別はいけない」
最後の文がまるで意味不明だったが、南波らしいと思った。
私も撃つだろう。パイロットだろうが、指導者だろうが。
パイロットの家族も。指導者の家族も。
私に立ち向かう敵全員を私は撃つ。
皆殺しにする。
敵が私に、私たちに向けてくる感情もろとも、消し去るために。彼ら、彼女たちのためにも。親族や友人を失った悲しみを断ち切ってあげる(・・・・・・・・・・・・)ためにも。
ここには、私を制してくれるあの祖父の横顔はないのだから。
一〇、
自動車が一台も通らないと分かっていても、道の真ん中で座り込もうと考えないのは、これは身体が常識に絡め取られているからなのか、本能的な防衛反応なのか。
「またそういう話か、」
スナックバーをかじりながら、路側帯の法面に半身を横たえた南波が私にうんざりした目を向けた。
「お前は考えすぎなんだよ」
「お前だってそうだろう。いつだったか軍事学の論文を原文で読んだって言ってたじゃないか」
「論文を原文で? 本当か、南波」
桐生がパックパックからチューブを伸ばしてアイソトニック飲料を飲んでいる。
「まあ、興味があったんで」
「どういう興味だ、」
「まあな……関係ないだろう」
南波はもう食事を終え、路面に上半身も横たえていた。バックパックも身体からはずし、チェストハーネスも緩め、靴まで脱いでいる。あまりにだらしない姿に見えるが、休憩の取り方としてはこれが正解だ。全身を拘束するあらゆる装備をいったん降ろすと、身体はスムーズに血液を流し、全身から疲労物質を取り去ってくれる。ただし、チーム全員が同じことをすると、あまりにも危険なため、いまは南波と蓮見が無防備状態になっている。私と桐生はCIDSもONにしたまま、銃は身体から放さず、片手でバーをかじり、水分補給をした。
「それで、姉さん」
南波が寝そべったままで言う。
「なんだ、少尉殿」
「ここは居心地が悪いって?」
「そんなことは言ってない」
「道の真ん中に寝転がるのは、気分がよくない?」
「そんなことも言ってない」
「まあようするに、あれだろう。人間は、結局のところ捕食者側ではなく、追いかけられる、追い立てられる、狩られる側の遺伝子が組み込まれてるってことなんだろうよ」
「南波、お前はそう思うか?」
「違うか?」
「だったらなんで私たちの目は真正面について、立体視ができるんだ?」
「他の動物は違うのか?」
「同じように狩られる側の動物の筆頭、シカだとかウサギだとか、あの連中は立体視はできないらしいぞ」
「本当に?」
「そのかわり、首の真後ろくらいしか死角がないそうだ」
「俺もそんな目が欲しいな。索敵に便利そうだ」
「そう考えたら、結局私たちは捕食者側の目の配置と同じなんだよ」
「クマとか?」
「そうだ。ネコとか、犬とか、オオカミとか、」
「サルは?」
「分類的には捕食者側なんだろう」
「索敵するのに必ずしも立体視が必要か?」
「必要じゃないか?」
「俺はむしろ、シカやウサギの目が欲しいな。全方位死角なしなんて、素晴らしいじゃないか」
そういう考えもあるか。確かにそうだ。私たちはCIDSなしだと、常に首をレーダーのようにグルグル回していなければ、あるいは耳をそばだて、物音に敏感になっていなければ、視覚のみに頼ると、敵がどこにいるのか分からなくなる。
「目がよくない捕食者もいるさ」
と私とは反対を向いたまま、桐生が言う。
「たとえば?」
全身を弛緩させた体勢の蓮見が訊く。
「お前はどう思う?」
桐生。
「目が見えなくて狩りができるの?」
リラックスしているときの蓮見は、より年下臭さがにじみ出る。甘えたような声音は、生来備わったものではないだろう。後天的なものだ、きっと。
「ヘビ」
南波が言う。
「正解」
桐生。
「犬だって視力はそんなによくない」
「色の判別ができないだけだろう。動態視力は凄まじいぞ?」
「そうなのか」
「知らなかったか?」
「俺は犬を飼ったことがないからな」
「歩哨犬の話だ」
と、桐生。軍用犬の訓練でも垣間見たことがあるらしい。
「でも犬というなら鼻だろう。鼻が利く」
「どういう世界なんだろうね」
蓮見。
「人間の何万倍なんだろう? 犬の嗅覚」
「嗅覚で個体の識別ができるそうだからな」
「俺も、姉さんの匂いならすぐ分かるぜ」
南波が白い歯を見せていた。五〇メートル先からでも見えそうな白い歯だ。
「変な話はやめてくれ」
不健全な物言いに聞こえた。思ったとおり、蓮見が露骨にいやな顔をした。
「相棒(バディ)の匂いだ。嫌っていうほど間近で嗅いでるからな」
「それをいうなら私もだ。お前の匂いならすぐに分かるさ」
「それって絆かね」
桐生が言う。平坦な口調。
「クサいな、二人とも」
蓮見がまったく感情のこもらない口調で言う。冗談のつもりらしい。笑ってやった。
「別な世界だろうさ」
南波が言う。別な世界? 私が?
「犬の話だ」
「なんだ、」