トモの世界
雨ならば傘を差して来たと思う。任務中に傘をさすことはないが、ここへ来るときはいつもオフだ。
風雨なら、雨具を着て来たと思う。
雪の日も足跡を深く刻んで。
おそらく、私はこの場所が好きなのだ。
シェルコヴニコフ海を望み、街が見え、しかし喧燥からはほど遠いこの場所が。
一度調べたことがあった。この墓地がいつ造られたのか。それは開拓時代からさらに遡り、この辺り一帯に住んでいた先住民(イルワク)の生活まで戻る必要があった。
北部自治域から北東自治域に跨るかなり広い範囲に、一〇〇〇年ほど前から、私たちとはかなり文化と言葉の異なる文化があった。北洋州やこの椛武戸の地名はほとんど、帝国の言葉ではなく、先住民(イルワク)たちの呼び名をそのまま使われている。彼らは文字を持たなかったが、話す言葉の文法の骨格は、私たちのものとほとんど違わなかったため、今では国内の一方言という扱いだが、しかし発音は難しく、綴られる物語も、自然と共存し、ときには命を失い、あるいは命を戴く、そうした生活に密着した壮大なものだった。
彼らは部族の墓地を、集落を見下ろせる高台に造った。私たちの慣習とは違い、彼らは墓標に木を使った。使われる木は、葬られる人によって違った。部族によっては墓標代わりに木を植えることもあったようだが、場所についてはやはり高台を選んでいた。この墓地もまた、高泊一帯を治めていた部族の墓地だったという。開拓民として入植した人々は、この地の先住民とともに汗を流すこともあったのだそうだ。そして、ともに同じ場所に葬られた。
もし、いつか戦役を離れ、許されるのであれば、私は彼らの造った墓地を辿ってみてもいいと考えていた。きっと、ここと同じように見晴らしがよく、気持ちのいい場所に違いない。街……集落で暮らす人々は、高台から常に彼らの肉親に見守られるのだ。それはいい慣習だと思った。
花束。初夏の野花が薫った。
誰か、特定の墓標を訪れるわけではなかった。墓地の中心地に、ひときわ大きな墓石がある。墓地全体を統べる墓標。すべての亡き人たちを鎮めるため、弔うための墓標。私にはそれが、この街全体を鎮めているようにも思えたのだ。私は静かに、そっと、墓石の前に花束を置く。この墓標にはいつも花や供物が絶えなかった。
私には特定の神はいない。教義もない。信仰があるかと聞かれたら、ないと答える。ここで花束を供えて、目を閉じ、頭を垂れることに意味はないかもしれない。しかし、経典はなくても祈ることはできた。私の言葉でだ。
私は多くの命を奪う側の人間だ。
死の恐怖を敵は思う存分私に与えるが、作戦が終わりここにこうして立っている私は、その恐怖をはねのけて、私や私たちを狙う敵の命を奪ってきた。だから戻ってこられたのだ。
墓地で、この墓標に、そっと頭を垂れること、それは私なりの弔いのつもりだった。私が躊躇いもなくトリガーを引いた先に、友人になれたかもしれない誰かがいたのではないか。いや、きっといた。この世のものとも思えないGBU-8自己鍛造爆弾の叫びを聞きながら、粉々にされた敵の中にも、話をすれば、わかり合えた誰かが……。
海から吹き抜ける風に頬を張られ、私は顔を上げる。
南波には絶対言えない。彼は私のこのような無意味な慟哭を理解できないし、して欲しいとも思わない。花束を見下ろして、私は思う。
振り返る。
墓標の傍に、一本の広葉樹が立っていた。ハルニレの木だ。ここに初めて来たのは真夏だった。ハルニレの木は空へ向かって枝を広げ、幾百、幾千の葉をそよがせる姿を私は一度で好きになった。もともとハルニレは好きな木だった。私の地元の草原にも生えている。今、眼前のハルニレはまだ若葉が芽吹いたばかりで、枝を透かして真っ青な空が見えた。見上げると、飛行機雲(コントレイル)が二筋、北へ向かって伸びていくところだ。雲の先端に、小さく機影が見えた。私の脳が、視線入力でサブウィンドウを開き戦闘情報を確認しようと試みる。条件反射だ。CIDSを操作しようとする私の脳のふるまいを、そのまま気付かないふりを決め込み、私はまた海を眺める。脅威判定などありはしない。周囲三〇〇キロに敵部隊の姿はないのだから。
海上はさほど風が強くないのか、波頭は見えず、おだやかに凪いでいる。視線を港に向けてみる。民間の船より、圧倒的に軍用艦が目立つ。本来あの鼠色は迷彩色のはずだが、こうした市街地や民間の船に混じると、やたらに目立っている。あれは、第四艦隊……北方艦隊の重巡洋艦に、その奥はミサイル駆逐艦だろう。空母や戦艦の姿が見えないのは、彼らが未だ北の海で作戦行動中だからだろう。
指令。
午前、隊本部へ出頭した私と南波に、次の指示が出た。
北へ向かえ。
指令から贅肉をすべてそぎ落とし結論だけを書くと、私たちが行わなければならない行動はそれだった。最前線への復帰。
南波は表情をまったく変えることなく、了解の意を示した。もちろん私もだ。
作戦に関する詳細なプリブリーフィングは三日後に行われる。そこから必要な装備の調達と、最低限度の訓練。一週間後にはふたたび北へ向かう。次回作戦ではチームも再編成される。リーダーは変わらず南波だ。南波少尉、入地准尉、蓮見(はすみ)准尉、桐生(きりゅう)准尉。蓮見とは『センターライト降下作戦』から一緒になった。桐生は他チームからの移籍組。少尉のほか全員が准尉という編成は、一般部隊から考えると奇異かもしれないが、五五派遣隊の大部分は准尉以上の階級だ。というより、チームリーダーを少尉として、他を准尉が固めるケースがほとんどだ。パイロットが全員少尉以上の将校なのと意味合いは近い。それだけ兵士としてのエリートが集められているのだ。
リストに並んだ私たちの名をじっと見た。すると文字が意味をなさなくなってくる。南波と書かれた文字と、あの軽薄な彼の顔が繋がらなくなるのだ。入地とは何者か、蓮見の姿、桐生の声。字面だけをじっと見ていると、偏も旁もすべてがバラバラになる。ゲシュタルト崩壊だと教えられた記憶があったが、それを私に言ったのが南沢教授だったか丹野美春だったのか、記憶が曖昧になっていた。
どちらにしろ、私はまた赴く。
墓標を作りに。
私や南波や、チームメイト以外の名前を刻みに。
そして、きっと、また私はここに来るのだ。
必ず。
七、