トモの世界
帝国空軍豊滝前線基地から北洋訛のきつい砺波(となみ)大尉の操縦する七七式救難ヘリコプターは、高度千メートル程まで上昇し、滑るように高泊駐屯地に到着した。南波は終始無言だった。疲れていたのかもしれない。私もしゃべらなかったし、砺波は副操縦士(コーパイ)や管制と最小限話すだけで、私たちには一言も話しかけてこなかった。スライドドアは閉じていて、ターボシャフトエンジンの音、ローターが空気を切る音はそれでもやかましかったが、私は南波に倣って目を閉じて機体に身を委ねたのだった。
私は停留所でそっと目を閉じ、大きく息を吸い、吐く。ため息じゃない、深呼吸。
電車が耳障りなブレーキ音を甲高く鳴らし、停車する。電車を待っていたのは私を含めて四人だけ。乗り込むと、車内には同じ数の四人が、位置もバラバラに座っていた。
(姉さん、悪い癖だな)
また南波。これは本当に言われたことがあるかもしれない。けれど場所も日時も特定できない。南波が私の視線をたしなめた台詞だろう。室内にいる人間の数と位置、それを入室した瞬間に把握する癖。……悪い癖かどうかは知らない。生き残る術だ。五五派遣隊で教育された。部隊配属前の地獄の訓練の過程でだ。けれどここは戦線から離れた高泊で、窓際の座席に座ったところで狙撃される心配などない。私が駐屯地司令だっターニャるいは有名な政治家であるならばその心配も有用だろうが、私はただの「戦士」だった。秩序が維持され保たれた市街地で狙われる道理がなかった。
電車はさらに市街地を離れていく。進行方向向かって右手にシェルコヴニコフ海を望みながら、周りからは背の高い建物が消えていく。勾配の緩やかな坂道を、道路と軌道と電車は上っていく。いくつもの停留所を通過し、いくつかの停留所で停車し、そのたび、車内の乗客が入れ替わる。けれど、満席になることはなかった。車内は陽射しにあふれている。なんの躊躇を考えることもなく、陽向に立ち、風景を望む。遮蔽物を考慮する必要もなけれは、だいたい私の両手はいまフリーだ。
やがて勾配は終わり、いわゆる旧市街地からは一段丘の上に通る道を、電車は行く。このあたりは住宅街で、旧市街に勤める人たちがささやかな住宅を建て、住んでいるのだ。建物どうしの間隔もまばらになってくる。風が強すぎるのと土地が痩せすぎているために耕作地には向かず、市街地が途切れると、広大な牧場が点在する牧歌的風景になる。一辺が四キロほどの格子に区切られた防風林と、果てしなく続く牧草地だ。北洋州本島でも見られる典型的な風景。本土からやってくる旅行者が憧れるという風景。
電車に揺られ始めて二十分ほど。ようやく私の目的地が近づく。電車が速度を落とし始めて、私は席をそっと立ち、電車が止まると、携帯電子端末(ターミナルパッド)を運転台横のカードリーダーにかざす。非接触型のリーダーだ。運転士が短く乗車への礼を告げ、私も返礼。開いたドアから、背の低い停留所に降り立つ。降りた客は私だけだった。電車は溜息を漏らしてブレーキを解除し、モーターを唸らせてさらに郊外へと走っていくのだ。この路線がもっとも市街地の外側へ向かう系統だと憶えている。そのうち終点まで乗ってみたいと思っているが、機会がなかった。いや、機会ならいくらでもあるのだ。いまも、そのまま乗っていけばよかった。今日は夜の点呼までに帰ればいい。まだ日も高い。終点まで乗ってからここに寄ればいい。でもそうしない。人の意思などそんなものなのだ。
信号機もまばらな道路だ。二ブロックほど行くと、角に黄色い壁と緑の屋根の小さな店がある。花屋だ。店頭には初夏の野花が数種類飾られていた。私は一方的に馴染みになってしまった店員に、いくつかを指さして、こぢんまりとした花束を作ってもらった。剪定してもらう間、私は店内を眺めるのだ。小さな店。地域の店。けれど生きている店。きっと発電所の傍の町にも、あの鉄橋を見上げる縫高町の商店街にも、こんな花屋があったに違いない。人がいなくなった町は、建物が破壊されず残っていたとしても生きていない。町は人がいて初めて「生きている」と言えるのだ。だからきっと、建物が破壊され黒煙を上げ瓦礫の山になっていても、そこに住民がいればその町は「生きている」。私はそう感じる。
店員が笑顔を向けてくる。
「できました。こんな感じでよろしい?」
笑顔だ。私と同じくらいの年格好で、エプロン姿がよく似合っている。髪の毛は淡い栗色で、ポニーテールがよく似合っていた。私の髪は肩に届くか届かないかの長さだ。長すぎる髪は職業上支障が多い。ろくに手入れもできないから、本当はもっと短くてもいいと考えていた。けれど、私の中のどこかがそれを拒絶していた。今日は「戦士」ではない私の出番の日。「外」へ出撃する前、迷彩柄のドーランを顔に塗りたくる変わり、いつ購入したのか思い出せなくなった化粧道具を引き出しから取り出し、高等課のころに買った小さな手鏡をデスクの上に立ててメイクした。迷彩パターンを塗るなら手際よくできるのに、化粧をするとなると三十分でも時間が足りなかった。誰と会うわけでもないのに。
「ありがとう」
私もなんとなく笑ってみた。南波を連れてくればよかったかもしれない。彼は笑うことに関しては、自然な振る舞いができるのだ。そして私に言うに違いない。姉さん、その顔はないぜ、と。ただ、と思う。南波のあの表情は彼の標準装備なのだろうかと。戦闘中のストレスがもたらす一種の防衛反応だったとしたら。けれど、寡黙で無表情な南波少尉など想像もつかなかった。
レジスターに携帯電子端末(ターミナルパッド)をかざし、決済する。私はここ何年も現金を見たことがなかった。すべて携帯電子端末(ターミナルパッド)があれば支払いには困らないのだ。生体認証機能があるから、むしろ財布に現金を入れて持ち歩くよりも安全だった。現金や財布には生体認証機能がないからだ。
「ありがとうございました」
何度目だろう。彼女の挨拶は気持ちよかった。南波も文句が出ないだろう。
私は店を出ると、ほんのわずかな時間、立ち止まる。花束の根本を右手で持ち、左手を花束の「柄」のあたりにそっと添える。……持ち方がまるきり控え銃の体勢だ。苦笑しながら、これもいつもの動作だったと思い出す。そのままの姿勢で、私は店を立ち去るのだ。
店の横の路地はそのまま一本道で、なだらかな丘陵へ続く。木製の電柱と街灯が一定間隔で並び、道の両側から住宅が切れると、何もない草原になる。気まぐれに立つ針葉樹と、右手に広がるのは海だ。ミントの香りが漂ってきそうなほどに淡い色の海原。視程がよく利く。軍事作戦上はあまりありがたくない天気。日常を過ごすには絶好の天気。海岸線の手前には旧市街が見渡せる。しばらく歩くとやがてコンクリート製の門が見えてくる。
墓地。
私はひとつの任務が終了すると、丹野美春が言うところのスイッチを入れるために、ここへ来る。ただの個人的なイベントで、深い意味はなかった。こうすることで、私は日常生活に戻してもらうのだ。このイベントについては、南波にも言っていなかった。彼はきっと、私のこの行動が理解できないだろう。この無意味かつ非効率的で、非論理的な私の行為を。