トモの世界
自分で南波に講釈しておいて……私自身はどれほど過酷な任務を経ても、任務の夢を見なかった。『追体験』も『予習』も、どちらもだ。だから、南波には悪いが、夢の中で南波を喪ったこともなければ、私自身が戦死するような夢もほとんど見ない。私の精神が楽観的にできているのかもしれないし、ひどく鈍感なのかもしれない。私は自分を比較的感受性は敏感だと思っていたが、戦闘地域を渡り歩くような任務をこなし、凄惨を極めるような景色をいくつも見ても、それを夢に見たりしないあたり、本当の私は相当に鈍感なのだろう。
凄惨な現場。
筆舌に尽くし難いとはよく云ったもので、だから私がいくら口で説明しても、文章を書いても、一割も伝わらないと思う。できることなら、私はそうした光景を説明したくなかったし、文章にするなどもってのほかだった。……面倒だからだ。口頭での説明にしろ文章にしろ、第三者の反応をいちいち確かめ、補足し、同情したふりをするのが疲れるのだ。
やはり私は鈍感なのだろう。
大きく息を吸い、吐く。
南波がいれば、「ため息はやめろ」と無粋なことを言う。ため息ではない。深呼吸だ。だいたいため息だとして、いちいち咎められる理由などないはずだ。大きなお世話だ。ここは酸素が貴重品の衛星軌道ステーションではないのだから。
それでも、一見がさつで大雑把に見える南波は、気配りが行き届き、繊細な一面があるのは認める。余計な気を使わせないのも気遣いなのだ。簡単なようで難しい。私にはできない。南波はわきまえているのだ。バディとして組んでいながら、彼も私の領域を必要以上に侵さない。
たとえば。
彼は私の名前を作戦中に一度も呼んだことはない。駐屯地でもそうだ。
コールサインか、だいたいが私の名字を呼ぶ。
彼は馴れ合いを嫌うのだ。そうは見えないが、事実そうなのだ。適度な距離を保つ。それが縮まることはない。永久に。おそらく。だから当然、私も南波の名前は呼ばない。呼んだこともない。
私の名前。
こんな生活を始めて、私は自分の名前を時折忘れそうになる。誰も私の名前を呼ばないし、部隊は私を十二桁の識別コードで管理するから、余計そうだ。私の識別コードは011471322701。南波少尉は011478227590。コールサインは作戦によって変わるし、私を識別する固有名詞は名字だけで十分で、コンピュータはコードがあれば問題ないのだ。
最後に名前を呼ばれたのはいつだったろう。
おそらく、この戦役に参加してからは一度もない。ずいぶんと時間をさかのぼらないといけない。
窓から外を見る。
タンポポが一面に生えていた。陽射しを浴びて、まぶしい。タンポポの向こうのDの字を横倒しにした形の兵舎はくすんだ淡いグリーンの木造だ。もともとここは軍事的な施設ではなかったのだろう。中継的な飛行場か、その類だ。それを空軍が接収して、前線基地にしてしまったのだろう。私がいま腰かけているベッドも、その頃から使われていたものかもしれない。物に記憶があるなら、それを呼び戻すとおもしろいだろう。軍が保有する装備はICタグで管理されていて、移動履歴や故障、修理の履歴、戦闘機ならば出撃回数、そうした情報が埋め込まれているが、ベッドや机の記憶はどうなのだろう。備品管理用に簡易チップがついているかもしれない。が、それ以上、このベッドに誰が寝たのか、どんな夢を見たのか、一日の大半を「孤独に」過ごすこいつが、私のような「来客」をいままで何人迎えてきたのか、それを知ることができたら。……なぜこんなことを考えてしまうのだろう。
窓辺にスチーム暖房があり、ぼんやりと熱を出していた。無骨なラジエータータイプのスチーム暖房はオンかオフかの二パターンしかない。猛烈に熱いか冷え切っているか。ぼんやり温かいということは、いまこいつは稼働していないということなのだろう。あらかじめ私と南波はそこにソックスと戦闘服を載せておいた。乾けば異臭も多少は抑えられるだろう、と。見ると、ソックスはパリパリになって塩を吹いていた。臭いのことは考えずに足を通した。ブーツの湿気はどうしようもない。あと三十分。
「おはよう、姉さん」
南波。
ベストは着けていなかったが、戦闘服姿だ。隙のない格好。ただ、4716自動小銃は持っていなかった。拳銃も、部屋の片隅の机の上に載せたままだ。
「すっきりしたか、多少は」
「多少は」
「晴れたな」
「そうなのか、」
「快晴さ。気づいたら」
「お前は寝たのか」
「俺は十分ほど前に起きたんだ。しっかり寝たよ」
私はベッドを降りる。戦闘服を身につける。
「気分はどうだ」
南波はタクティカルベストを着ける。メルクア・ポラリスMG-7Aをホルスターに挿し、自分の4716自動小銃を取ると、ベッドに腰かけた。
「いい」
「俺もだ。でも寝たりないな」
「それは同感だ」
「夢でも見たか」
私ははっとして南波を見返した。
「なんで」
「眼が赤い。ちゃんと眠れてない証拠だ……それともあんたも夢を見ない子どもなのかな」
「違う」
「冗談だよ。ムキになるな。分かってるから」
南波は低く笑った。おそらく本音だろう。私たちの間に疑念や秘密は存在しないからだ。そんな雑念のために判断が鈍ってはかなわない。ただし、知らなくてもいいことはお互いに知らない関係だ。知る必要がないことは無理に知ろうとしない。それが不文律だ。
「どこに行ってた」
「売店(PX)」
「そんなものがここにあるのか」
「キオスクみたいなのがあったぜ」
言いながら、南波は私にチョコレートとコーラを差し出した。
「悪い」
コーラの缶はよく冷えていた。
「高泊に帰ったら返してくれればいい」
「自分のは」
「ちゃんといただいた。気にするな」
私はプルタブを引き、コーラをあおった。炭酸が喉を灼く。喉が鳴った。旨かった。
「こういうのを見ると、日常が帰ってきたって気がする」
ぼんやりと思う。
「姉さんでもそんなことを考えるんだな」
「なぜ」
「どこに行っても非日常に文句を言ってる、そういう印象だからな」
「ひどいな。なんだ、その『どこに行っても非日常』って」
「表裏なんだろう。あんたにとって、日常ってのは。どこに行っても日常の延長で、帰ってくるときは、いままでの日常が非日常になってるんだろう」
「難しいことを言うんだな」
「難しいことを言うのは、あんただけの得意技じゃないんだよ」
南波の声が穏やかに私の耳へ届く。CIDSもインターコムも何も通さない肉声だ。銃声も間に割って入らず、ジェットエンジンの轟音は聞こえるが、ここは私がなんとなく理解できる日常の世界だと思う。思いながら、チョコレートをかじった。これも旨かった。
「悪いが、コーラとチョコレートは、合わないな」
「そうか?」
「コーラが……ただの炭酸水に感じる。チョコレートの甘さに負けてさ。なんか残念な気がしないか」
「それって真理じゃないか?」
「なにが」
「強い甘みの前に、弱い甘みは無味になる、ってね」
「意味が分からない。なんだ、入地准尉の格言集その一か」
「いいんだ。気にするな」
気にしようがなかった。
「さっさと食え。行くぞ」