トモの世界
言いながらも南波は鉄道橋、そしてその右手に広がる港、船底を見せている駆逐艦からそのさらに右手、黒煙がわずかに上る重油タンク、高速道路のランプウェイ、そして巨大な主塔がそびえる吊り橋まで、抜け目ない仕草で眺めるのだ。衛星からのリンクは途切れず、南波のCIDSに繋がっている。空の目で地上を見る。その気になれば壁の向こう側も見える。
「学生時代を思い出していたんだ」
「あんた帝大卒だもんな。さすがはエリート」
「……担当の教授が言ってたよ。人類は、文字より先に言語を発明した。だから、人類文明に文字は必ずしも必要ない。それが証拠に、文字を持たない民族がいくつも存在している。では、その逆はあり得るかって」
私は負い紐(スリング)に左手をかけて、少しだけまた居住まいを正した。いつでも発砲できる体勢ではあるのだが、策敵や照準のお助け便利アイテムである私のCIDSは三日前、発電所奪還戦で敵の狙撃銃にぶち抜かれ失われた。頭までぶち抜かれなかったのは奇跡に過ぎず、しかし、それは死に至るまでの執行猶予なのかもしれないと、そしてCIDSなしの索敵がいかに脳と精神にやすりを掛けるのか、この建物に逃げ込んでから悟ったのだった。
「それで、」
南波が先を進めろと促す。彼は彼で持っていた4716自動小銃を空沼川の支流、勅使尾(てしお)川に沈めてしまった。だから南波の予備弾倉はすべて、私が預かった。結果、私は彼を守る義務を負う。彼は私を誘導する義務を負う。個人対個人の安全相互条約だ。
「必ずしも人類に音声化された言語は必要なのか、それははたして蓋然性がある議論なのか、と」
「学者らしいよくわからん単語の羅列だな。紙に書いてくれ。言われただけじゃ俺には理解できん」
帝国の経済と政治の首都・都野崎(とのさき)市の中心部。広いキャンパスを望む大学の教室で、私は教授からその話を聞いた。都野崎は北方戦域から海峡を二つ隔てて二〇〇〇キロ。戦域からかなり遠かったから、街は平和だった。
「とりあえず、近接航空支援までの暇つぶしだと音持って聞いていてくれ。教授が主張していたのは、言語が発明されて、それを記録するための記号として文字が後発的に発明されたが、はたして逆はあり得るかってことなんだ」
「よくわからん」
「文字と音声を処理する脳の領域は違うんだそうだ」
「それくらいなら聞いたことがある……ような気がする。目で見る文字と、耳で聞く言葉では、脳ミソの処理領域が違うという話だろう」
「そう。脳が言語を処理する場合、おおむね言語野と呼ばれる部分の血流が活発になるが、しかし一方、文字を読み込んでいる際、視覚に関わる外側膝状体の血流もまた活発になるんだって。だから、」
「言語を処理するとき、脳は二系統で計算しているってことか」
「一般的な仮説だよ」
「よくわからんが。相変わらず」
南波の左手が手持ちぶさただ。腕ごと吹き飛ばされなかったのは、やはり奇跡なのだ。敵の戦闘車両が森の向こうから現れたとき、味方の八二式戦闘ヘリコプター四機は、空沼川に哀れ油膜を流しながら沈んでいたのだから。
「その脳の処理系統だけど、」
私は南波の背中に自分の背をつける。これで三六〇度、ほぼ死角はなくなる。壁の向こうは南波がCIDSで監視する。壁のこちら側は、私が肉眼で監視する。我々二人の反射速度は、野生動物のそれすら上回る。そういう訓練を受け、身体そのものにも電子的、有機的、あらゆる調律を施されている。陸軍の医官たちによって。
「文字だけの言葉なんてあり得るのかよ。ようするに言葉としてしゃべる必要がない言語はあり得るかって話だろう」
「そういうこと。イリアン諸島のハルマヘラ族の話をしてやるよ」
「なんだって?」
「とある島に住んでるとある先住民の話だ」
やや寒気を感じる。実際気温は低いのだ。あと数十分で日が暮れる。まもなく夏を迎えるとはいえ、北極圏に近いシェルコヴニコフ海から吹き出る空気は冷たく、このあたりは盛夏でも最高気温が三〇度に達しない。
「赤道に近いイリアン諸島では、長袖シャツを見たこともないような連中が半裸で闊歩してる。主食はバナナとヤムイモで、タンパク質は湿地に住んでるは虫類と、森の中の昆虫類で摂られる。塩分が極度に低い食生活の彼らは、世界的にも低血圧な部族としても知られる」
「それで、」
南波が右手親指で、拳銃のスライドをなで回している。
「ハルマヘラ族は、感嘆詞以外の言語を持たない部族だと思われていた。『ああ』とか『おお』とか、赤ちゃんみたいな言葉しかしゃべらない、未開の野蛮民族だって。彼の地を旅したジョンストンって探検家にに発見されてからね。ジョンストンてわかる? 落ちぶれ貴族で冒険家で人種差別主義者だった」
「どっかの島で熱病でくたばって、自分の国に帰れなかった冒険家だか何だかだろう。小さい頃本で読んだよ」
「イリアン諸島はちょうど航海の中継地にぴったりだったから、船乗りたちが大挙して押しかけた。あの島の固有種であったカケアシドリが絶滅寸前に追い込まれたのは、彼らの食料にされたからだ。知ってるよな?」
南波は返事をしない。CIDSを装備した顔面上半分は表情がわからない。うっすらと無精髭が伸びていたが、それでも清潔な雰囲気を漂わすこの男は、まったく不思議な安心感を与えてくれる。たった一丁の自動小銃と二丁の拳銃しかないのに、強力な武器を持っているような気分になる。この町に住民はすでにいない。公式には、戦闘開始前に全員避難したことになっている。本当かどうかはわからない。北方会議同盟(ルーシ)連邦軍に機銃掃射を受けて逃げることもできなかったかもしれないし、虜囚となって大陸に後送されたかもしれない。先週、敵の駆逐艦が二隻やってきて、艦砲射撃で町の地形を変えた後、湖に逃げ込もうとした帝国側の民間船を何隻か撃沈している。もっとも、その駆逐艦も民間船のあとを追うよう撃沈された。沈めたのは友軍の八九式支援戦闘機が放った数発の空対艦ミサイルだ。
「イリアン諸島で船乗りたちはあることに気づいたんだ。原住民のハルマヘラ族が、二音節以上の単語を話さないことにさ」
ハルマヘラ族は、ごく単純化された言葉しか話さなかった。船乗りたちが意思疎通を図ろうとしても、何年かかっても彼らの言語を理解できなかった。ハルマヘラ族はおよそ言語のように聞こえる言葉を話さず、合図のような音声しか発しなかったからだ。仕方なく、船乗りたちは、土や木箱や紙の上に絵を描いた。それでなんとか「会話」を行った。もっとも、船乗りたちは宗主国の人種差別主義の領主たちと同じく、ハルマヘラ族を人間と見なさなかったから、それで十分だったのかもしれない。
「絵を描いたってことは、文字は理解できたってことにもなるのかな」
「まだその話はあとなんだ」