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トモの世界

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 伊来中尉はここへ来るまで、Iid(イーディ)や写真でしか知らなかった風景だろう。冬期間の戦闘は訓練からすでに地獄だ。実戦のそれは筆舌に尽くし難い。戦う相手が敵だけでなくなる。季節そのものと戦わなければならなくなる。食料の現地調達は不可能で、液体のまま水を保持することも難しくなる。私はこの地を一度離れ、陸軍に入り、五五派遣隊に配属されると、冬の戦闘技術をいやというほど学ばされた。あまりに過酷な訓練だった。祖父と冬の山野を巡った経験がなければ、間違いなく挫折していた。そのときから南波とは同じチームだったが、彼は終始無表情だった。最初は何を考えているのかわからなかった。次第に、何も考えていないのだとわかった。そして、時折何かを考えているのだということもわかった。助教や指導官はうまくチームを編成するものだと思う。今では南波と私の最低行動単位(エレメント)は不可分のものになっているのだから。
「もうすぐ着陸する!」
 メディックが怒鳴る。南波がSTANDBYモードから復帰する。私はやや弛緩していた上半身を引き締める。伊来中尉は、クルーを失いこそしたが、けがもなく帰還できたことに幾分安堵しているように見えた。
「陸軍さん、ここでいいな」
 メディックは航空ヘルメットにバイザを降ろした姿だ。表情はわからず、口調も強かった。歓迎はされていないのだろうと思いながら、
「助かった。ありかどう」
 私はそう伝えた。南波が親指を立ててみせていた。連邦合衆国の兵士がやるような仕草だが、南波がやっても似合わない。私は南波に小さく首を振ってみせたが、私の仕草が彼には理解できなかったらしく、私にも親指を立ててみせた。いまいち似合わないのは、連邦合衆国軍の兵士のような底抜けに明るい表情を見せなかったからだろう。
 ヘリはぐっと右に旋回し、高度も落ちていた。豊滝前線基地は二五〇〇メートルの滑走路一面と平行誘導路、建造物のやたらと少ないエプロン、ひょろ長い管制塔と、必要最低限の設備だけがある、例えはおかしいが、国道沿い、不意に現れた小さな売店とガソリンスタンドしかないパーキングエリアのようだった。急ごしらえのようなコンクリート造りの掩体が森とエプロン地区のあいだに並んでいて、出撃待ちなのか、列線には六四式戦闘爆撃機と八一式要撃戦闘機の姿が見えた。
 私たちが乗った七七式救難ヘリコプターは、ゆっくりと、エプロンの端のヘリパッドに着陸した。
 メディックが先に降り、エスコートされるように伊来が続き、私と南波は言葉や意思を介しないアイコンタクトを交わして、4716自動小銃を手に、短い空の旅を終えた。
 私たちは空軍基地に降り立った異質な黒い染みだった。空軍の兵士たちは空色の制服を身につけていた。警衛の兵士はいるのだろうが姿は見えない。自動小銃や拳銃といった飛び道具を持った隊員の姿はない。戦闘機に取り付く機付員たちは濃いグリーンの作業服を着ていたが、黒の戦闘服上下は私たちだけだった。伊来はヘリコプターを降り、メディックが付き添いながら、離れていく。彼女がこれからすることされることは多いに違いない。とりあえずは医官の診察を受けるのだろう。上官への報告、あるいは審問も受けるかもしれない。そしておそらく、私たちはもう会うことはないだろう。悲観的意味ではなく、彼女は空の住人であり、任務は戦闘機を駆って空を切り裂くことだ。私たちは地を這い、銃を撃ち、駆けるのが任務だ。住む場所が違う。今まで伊来中尉に出会わなかったように、これからも会うことはないだろう。ただ、会おうとする意思があればまた出会えるかもしれない。邂逅の機会があったとして、私たちは会おうとするだろうか。私は彼女の後ろ姿に、首都で見た桜の花を思った。満開の。
「伊来中尉」
 ヘリコプターはエンジンを切っていたから、ローターが空を切る音と、出撃を控えてエンジンをかけている八一式要撃戦闘機のタービン音があたりを支配している。
 伊来中尉。振り返る。
「よかったら、……タクティカルネームを、教えてもらえませんか」
 私の声は届いただろうか。私の声は彼女ほどに高周波ではない。南波が私の隣に並ぶ。
「……!」
 伊来が答えた。スロットルを開いたらしい八一式要撃戦闘機のエンジン音に、彼女の声は紛れてしまった。
 私と南波、そして伊来中尉との距離は、もう開いていた。私たちが彼女に歩み寄るには不自然なほどに。そして、私たちは彼女の言葉を二度聞き返すほどに親しくはなかった。彼女は先任だったが、彼女の言葉は命令ではなかったから、確認する必要もなかった。
「南波、」
 私は前を向いたまま、伊来中尉を見送ったまま、南波を促す。
「中尉!」
 エンジン音に負けない大きさで、南波が声を張り上げた。肺活量の大きな南波の声はよく通る。伊来は私たちを向いたまま。
「武運長久を!」
 伊来中尉。じっと私たちを見る。そして、機敏な動作で脱帽時の敬礼……いわゆるお辞儀をした。
 彼女と並んでいたメディックも、倣った。
 私たちは挙手の敬礼。陸軍式の、正式なスタイルで。
 そして、伊来は踵を返し、しっかりとした足取りで、エプロンから離れていく。
「陸軍さん、」
 後から呼ばれた。振り返る。
「高泊まで、あんたら乗ってくか」
 私たちを乗せてきたパイロットがバイザーをあげ、にやりと笑っていた。
「え、」
 南波が聞き返す。
「ここは前線基地だからな。救難機は連絡機も兼ねてンのさぁ。……今すぐじゃないけんど、今日中に高泊の統合司令部まで行くから。行きは空荷だからよ。よかったら乗っていけばいいべ。誰もそったらことで文句は言わんべよ」
 南波が私を見る。大尉の階級章とウィングマークをつけたヘリコプターのパイロットは、すさまじい訛でしゃべりながらコクピットから降り、腕を組んでエプロン地区を見渡す。
「いきさつは知らネが、五五派遣隊の名前は知ってるから。なにをやってンだかは知らネが、まあ、いろいろ大変なんだべ?」
 パイロットは北洋州の南側の出身だろうか。そんな響きだった。。
「まあ、そうだね」
 南波が答えた。伊来と話したときとは声音が違った。
「俺も五年前までは、戦闘機に乗ってたンだがな」
「そうなのか、」
 南波は階級章に気付かないふりをしている。そしてパイロットもそれを許している。
「あんた、夢は見るかね」
「夢?」
「夢さ。さっき、俺のヘリん中で寝てたべ、」
「寝てない」
「目ェ閉じてたべや」
「見てたのか。脇見運転は勘弁して欲しいね」
「空に障害物はなかなかないから平気なんだ?」
 聞き覚えがある訛りだった。間違いなく北部自治域……北洋州本島の南側、海沿いの出身に違いない。そういう匂いがした。
「困った運転手だぜ」
 南波に並ぶと、パイロットはやや南波より背が高かった。南波は標準的な身長だから、やや長身といえる。私は……私も標準的なほうだろう。
「あの子は、また飛べるべかね、」
 今にも煙草でも吸い出しそうな口調だ。パイロットは伊来のことを言っている。
「なぜ」
「馬から落ちたらすぐに馬に乗れ、っていうけんども、はぁ、あの子はどうだかね」
「やさしいんだな。若い女の子だからか」
作品名:トモの世界 作家名:能勢恭介