トモの世界
針葉樹、低湿地、森を貫く国道、そしてさほど遠くもない場所に、黒煙を上げる縫高町の市街地が見えた。あの荘厳さまで感じさせた鉄道橋は崩壊し、川の流れに沈んでいるようだ。南波が遠くを見ていた。北洋州のこの島……椛武戸は、南部はだいたい平野で、上空三〇〇メートルから見渡しても、地平線が望めた。地平線が切れるあたりに微かに見えているのは中部から北部へ連なる山地で、もっと近寄ればまだ雪を頂いているはずだ。激戦が続いているのはそのあたりだ。ここから二〇〇キロ近い距離がある。
私はあまりヘリコプターが好きではない。なにより不安だ。武装らしい武装は私たちが持つ自動小銃だけというこの救難ヘリにしても、下方から襲われたら一撃だ。武装ヘリコプターも、ドアガンの射線をかいくぐった敵に狙われたら、墜ちる。その点でも、攻撃ヘリコプターを除くと、装甲車よりはやはりバスに近い乗り物だと思う。
本物の乗り合いバスなら、都野崎にいた頃は毎日乗っていた。その頃の私は、4716自動小銃やメルクア・ポラリス拳銃の代わりに、テキストやペン、それを入れたバッグを肩から提げていた。よもや自分がバッグの代わりにライフルを、普及していた携帯電子端末(ターミナルパッド)の代わりに拳銃と予備弾倉を持ち歩くようになるとは、思っていなかった。
都野崎はこの北部自治域……北洋州のこの島から南へ二〇〇〇キロ。いまごろは気温も二〇度を超え、花の季節も過ぎ、すっかり色濃くなった木々の緑が賑やかだろう。開けた湾から吹き込むやや湿った風も、北極圏から吹き下りてくる寒気よりはずっといい。私は長く暮らしたはずの北部自治域の鬱屈した気候より、穏やかで冬も降雪がない都野崎の季節が懐かしかった。今年は都野崎の紀元記念公園、その満開の桜の花を見ることはできなかった。去年も、一昨年も見ていない。私にとってあの街はすでに遠く、四年過ごした間にできた友人たちも縁遠くなった。
この地の桜はいつ咲いたのだろう。あるいはまだかもしれない。桜前線がじりじりと北上し、首都近郊が初夏の声を聞くころ、ようやく前線は国境を超えるのだ。
ヘリコプターから森を見下ろす。背の高い針葉樹は樹高五〇メートルに近い。針葉樹帯を取り囲むように、白樺が見えた。白樺は広葉樹の中では生命力が強く、たとえば野火で焼き尽くされた森林で最初に復活するのは白樺だともいわれる。白樺の枝からは淡い萌葱の若葉が映える。曇り空でも映える。南で暮らした四年で唯一私が北の風景で思い起こしたのは、晩春に見られるこうした緑の芽吹きだった。この喜びは、南のそれの比ではないからだ。
呼ばれた、ように思えた。
顔を機内に戻す。ヘリコプターのローター音が凄まじく、誰が私を呼んだのかわからない。南波は目を閉じてじっとしていた。メディックはコクピットに首を突っこんで何かやっている。私を向いているのは伊来中尉だった。
「中尉、」
私はにじり寄るようにして、伊来を向いた。
「呼びましたか」
「礼を言ってなかった」
伊来の栗色の髪がダウンウォッシュに舞っている。こうして見ると、彼女は純粋培養のエリート色がさらに強く見られた。撃墜されたパイロットならばもっと精神的にダメージを受けているはずで、それは外からもわかるはずだったが、彼女にはそれがない。あくまでも涼しげな視線、そして穏やかな表情。印象的なのは彼女の目だ。今は閉じられている南波の目と比べるとよくわかる。彼女の目は規格外に澄んでいる。やはり、彼女は遺伝子的エリートとして生を受けた可能性があると私は感じていた。
「どっちみち、このヘリコプターがあなたを見つけていましたよ。礼を言うなら私たちだ」
そのとおりだと思っていた。事実、伊来と出会ってから、二時間も経たないうちにヘリコプターがやってきた。あと半日近く歩かなければならないところ、不謹慎ながらも私と南波にとっては幸運だったのだ。
「この機は、豊(とよ)滝(たき)へ?」
空軍の前線基地だ。常設部隊はいないが、今は空軍の飛行隊が駐留している。私たちが目指そうとした高泊からは内陸に車で半日ほどの距離だ。場所は知っているが行ったことはない。陸軍の部隊は駐屯していない。
「おそらく、」
「あなたは、伊来中尉は、そこから?」
「そう……もともとは御津納沢(みつのさわ)だけど」
北東自治域の空軍拠点でかなりの規模の基地だ。彼女が駆る六四式戦闘爆撃機が二個飛行隊、八一式要撃戦闘機が同じく二個飛行隊、八九式支援戦闘機も一個飛行隊が所属している。早期警戒機も所属しているし、救難部隊に高射砲部隊、気象に医療に後方支援と、空軍関係者だけで御津納沢市には万単位の関係者が居住している大所帯だ。ここには陸軍も師団が駐屯していて、列車で一時間も行けば海軍の基地もあるから、あたりは一大軍事拠点ということになる。北部自治域にはここまでの拠点はない。海峡からこちら側の北部自治域……おおざっぱにいって北洋州を外地とするならば、長く武家政権の文化を背骨に持つ海峡の向こう側こそが本当の「帝国」で、御津納沢基地は「帝国」の北限といえるだろう。
「寒いだろうな……」
伊来中尉は目を細めるようにして、曇天の低湿地と針葉樹林を眺めていた。私はつい、ややあどけなさまで残るその横顔に、声をかけていた。南波が私を見た。一瞬目を細めて。
「もう慣れた」
伊来が返す。私を見ないで。眼下は芽吹いたばかりの新緑の木々と、鉛色の湖沼、川、簡素な道路に、延々と続く送電線。殺風景を絵に描いたような光景だ。しかし、一ヶ月季節が逆戻りすれば、さらにこのあたりは殺風景になる。雪解け直後の北洋州の風景は、おそらくどんな人間でも厭世的になる。ところどころにはびこる永久凍土は膿み、舗装していない道路は泥濘に沈む。装輪車はおろか、装軌車ですら往生するような場所もある。演習で五五派遣隊所属の九七式戦車が泥濘につかまり、履帯すべてが没してしまったことも一度や二度ではない。かつての大洋戦争の時代、同盟国が列強諸国と相まみえたとき、国土深くまで地上部隊の侵入を許さなかったのは、同盟軍そのものの戦力というよりも、冬将軍を筆頭として、果てしなく膿む大地をはじめとする気候的要因のほうが大きかったのだ。それはわが帝国との北方戦役でも構図自体は変わらない。北洋州には大規模なツンドラの大地こそないが、初春の季節はめまぐるしく高気圧と低気圧が行き来するため、二日と青空が安定しない。思い出したように降る雪を恨めしく仰ぎ見、あきらめかけた頃にようやく本格的な春が来るのだ。
「伊来中尉は、どこの出身で?」
立ち入った質問かと思った。黙って基地到着を待てばよかったかもしれない。南波が意外そうな顔をして私を見ている。普段私がこんな質問をしないからだ。
「私は、……京(みやこ)。」
帝が住まう場所……帝国の首都だ。意外だったが……すぐに私はしかし納得した。伊来の表情に、ふと洗練された何かが見える気がしたからだ。選ばれた子供。「第二世代選別的優先遺伝子保持者」……ただ単に<PG>と呼ばれる遺伝子的エリート。きっとそうだ。
「慣れましたか」
「慣れた」
「寒さに?」
「……この風景に」