トモの世界
「俺もだな。そして帰ってくるさ」
私は、しかし聞いた。空軍の元パイロットから。
彼は、北方戦役で八一式要撃戦闘機に乗り、そして北洋州の上空で撃墜された。高度一万メートル。射出座席ごと放り出され、非常用酸素ボトルが作動し、急激なGに薄れそうな意識の中で、身体は機体から離れて、座席ごと雲を突き抜けて降下する。視界の端で、黒煙と炎の塊となって四散する愛機の姿が見える。脱出シーケンスは自動化されているため、パイロットと座席の切り離しからパーソナルシュートの展開までそれらすべては、彼の操作なしに実施され、彼が気づいたとき、そこは一面のワタスゲの原だった。
パイロットたちの間で話し合われていたその幻想の場所は、彼自身知っていた。しかし、信じてはいなかった。南波と同じだ。妄言だと思った。生き残る気持ちのない奴らが勝手に言っているだけだと。
しかし、眼前に広がっているのは、上空での戦闘が嘘のように静かな草原で、夏を迎えた一面は、白いワタスゲで埋め尽くされていた。
救難ビーコンも作動していた。サバイバルキットもあった。風にパラシュートキャノピが揺れていた。四散した機体はどこにあるのかわからなかった。ただ、……首を巡らせても、方向感覚がなくなるほどに、そこは一面のワタスゲの原なのだ。
本当にあったのか。
いや、彼は思った。
俺は死んだのか。
今見えているすべては幻覚で、俺の身体は機体とともにバラバラになったのではないか。だとしたら、ここから出ることは二度とかなわず、しかしもしここが死後の世界であるのなら、もう命の心配をせずとも、生きていける。
不思議なことに、彼はワタスゲの原に立ち、「生きている」と実感した。
その瞬間、不思議な感覚から醒めたという。
これは現実だ。
俺は今、現実の世界にいる。
傍らでは、救難ビーコンが短い間隔でしきりに信号を発信しているではないか。天国に救難信号が必要だとは知らなかった。ビーコンには全地球測位システムが組み込まれている。衛星を見失っていれば、ビーコンはエラーを出すが、それはなかった。そうだ、ここから出られたら、この場所がどこかわかる。そして、基地の連中に言ってやれる。天国なんてない。俺は帰ってきた。ワタスゲの原は本当にあったんだ。天国なんかじゃない。俺たちの世界と地続きなんだ、と。
彼は歩いた。サバイバルキットと、当時の制式だった自動小銃を手に。
食料はある。ビーコンを持ち、身体のどこにも異常がないこを確認し、彼は歩き始めた。
「ワタスゲが生えるような季節ならよかったのにな」
歩きながら、南波がぶつくさ言っている。寒いのだ。吐く息が微かに白い。明け方から休憩を挟みながらも歩き通しで、足が痛い。
「もうその季節だ」
私は答える。
「そうなのか。俺はこっち側の季節感覚がどうもわからん」
「伊来中尉、歩けますか」
「大丈夫だ。そんなに客人扱いしなくてもいい」
「失礼」
私はくだんの元パイロットに同意する。おそらく天国など存在しない。きっとワタスゲの原は実在するのだろう。どこかに。
どこかに。
どこかはわからない。
私が元パイロットにインタビューしたのは、都津野市の帝国大学医学部付属病院の……閉鎖病棟の談話室だった。精神医療課のだ。
都津野市にある帝大医学部には、戦時後遺症を専門に治療する医官が常駐していた。軍病院ではなく第三者機関である医学部の方が、より多角的に治療できると政府が判断したからだ。私は南沢教授の紹介で彼に会うことができた。結局、元パイロットはあまりにも過酷な経験をしての生還のため、戦争が終わって、精神のバランスを大きく崩してしまったのだ。大規模な戦争のあとにはよく見られる後遺症だ。だから、彼が主張するワタスゲの原が北部自治域のどこかにあるとしても、だれもまともに探そうとしなかった。空軍内で伝承されていたその話を、みな知っていたからだ。おそらく彼もまた臨死体験を経て、幻想と現実の区別がつかなくなったのだろう、と。
しかし、私は彼と話をしてみて、撃墜され、「ワタスゲの原」に降り立ってからの話に信憑性を感じずにはいられなかった。時系列にまったく破綻がなく、本来描写しなくてもいいビーコンの作動など、微に入り細に穿ち、説明によどみがなかった。惜しむらくは、救難機の到着までに予想以上の日数がかかってしまい、低湿地帯のはずれでビーコンを感知した救難ヘリコプターが彼を発見したとき、ついに彼は瀕死の状態まで衰弱していたのだ。結果、彼が撃墜された空域からどこに降り立ち、どうやって救出点まで移動したのかがわからなかった。ビーコンは信号の発信機能があるだけで、位置の記憶まではしない。そして、当時の救難体勢も無数の救難ビーコンをすべてリアルタイムで受信し記録するようなことはしていなかった。あまりに遭難者が多かったからだ。
けれど、と私は思う。
彼の言葉をそのまま引用するなら、「地続きの場所」に天国があることになる。
もし戦士たちが集う黄泉の国がこの島のどこかにあるのなら、私は行って見てみたい。
そして、南波が言うように、必ず帰ってくる。
彼岸への憧れなど、潰してみせる。私が特殊作戦部隊である第五五派遣隊を志願したのはそんなきっかけだった……というのは過言か。
考えながら歩いた。
時間の感覚がややあいまいになりかけていたところを、耳に届くのはヘリコプターの羽ばたき音。
「南波、」
「ヘリコプターだ」
「准尉、少尉、……救難機だ」
固定翼の捜索機が円を描いて飛来している。その向こうに、救難ヘリコプターが頼もしいローター音を響かせて飛んでくるのが見えている。
南波のタクティカルベスト。ビーコンが作動している。
「さすが……飛行機を持っている軍隊は違いますね、救難が早い」
やれやれ。自嘲気味に南波が私の顔を見る。それはそうだ。パイロットは「高価」なのだ。
「南波、よかったな。私たちも便乗させてもらおう。……中尉、頼めるだろうか」
「大丈夫だろう。友軍(フレンド)だからな」
私と南波は、初めて伊来中尉の笑顔を見た。
緊張が一気に緩んだようだ。少女のような顔をしていた。
「南波少尉、信号弾だ」
「了解、准尉」
南波は信号銃を、陸上競技のスターターのように高く掲げると、トリガーを引いた。
四、
空軍救難隊の七七式汎用ヘリコプターは高度三〇〇メートル程度を飛行した。スライドドアは開け放たれていて、私も南波も無言だった。無言で4716自動小銃を抱えるように、吹き抜ける風を感じていた。やはり寒い。傍らの救難員(メディック)は私たちを時折向くが、声をかけてこようとはしなかった。救難隊のヘリコプターは国道脇に着陸し、まず伊来中尉を乗せ、そして私たちが続いた。彼らは何も言わずに我々をヘリコプターに招いてくれた。