トモの世界
「そんな話、信じられないな。要するに、そのワタスゲが咲き乱れるお花畑が実際に存在していて、乗ってる戦闘機が撃墜されたらそこに辿りついちまったってだけの話じゃないのか」
「確かに。とくに北洋州や樺(かば)武(ぶ)戸(と)ではワタスゲなら実際にかなり広く分布しているから、廻り一面ワタスゲという、そんなところもある。けれど、『行ったきり帰れない』とか、『戦死したら集う場所』というのが、実のところ世界的で普遍的な『天国』のイメージと重なるところがあると思わないか。……南波少尉、銃弾飛び交う最前線で、具体的な地名を挙げて、どこそこ湿原の南のゲートあたりで、死んだら落ち合おう、なんて話をすると思うか」
南波は答えず、伊来中尉が返事をした。
「そうだな」
「あまりにその話が蔓延したので、厭戦的ムードを払拭するためにも、戦況の間隙をついて、空軍が偵察機を飛ばしたんだそうだ。衛星写真の解析だとか、大まじめに」
私が続ける。
しかし、北洋州や庫裏流諸島、そして北部自治域全域をある程度スキャンしても、それに該当するような場所はなかったという。そもそも、陸上で撃墜され、運良く脱出したパイロットたちの生還率は五〇%を超えていた。「行ったきり帰れなくなる場所」とは大げさなイメージだった。
「人間の脳に、『天国願望』があるんじゃないか、そう思いませんか」
「脳内麻薬の話ではなくて? 入地准尉が言うように、『天国モード』がプリセットされているってこと?」
「光に溢れた場所……それくらいなら私もあなたも、南波少尉も、極限状態になったら見られる幻覚かもしれない。けれどそれを、なぜ私たち人間は『天国』だと判断するんでしょうか。『光を見た』ではなく『天国の入り口に立っていた』となぜ思うのでしょうか。私たちは、もしかすると、彼岸への憧れを常に持ち続けているのではないか、そう思うんです。たとえば、遺伝子的に、ヒトには『天国』のイメージがデフォルトで設定されている」
「なぜだ、」
ついに南波が立ち止まってしまった。
「一種の逃避かもしれない。死ぬかもしれない、生き残れないかもしれない、そういうとき、生への執着を断ち切るために、無理矢理、別次元の世界を構築して、そこへ逃げ込めると、自分自身を安心させる場所」
雨音。
「だから、まぶしい場所、明るい場所、空の上、そういう場所を、死者が集う場所だと理解する。……そういうイメージが、私たちの中に刻まれているのだとしたら? それを補強するのが、宗教だとしたら?」
「宗教は好かん。……奴らは生きることを放棄してる。天国なんてものがあるとしても、俺はそんなところに行くつもりはない」
「ずいぶんと極端だな。カルトな連中はそうかもしれないが、おおむね人生の安定と道徳に寄与する存在として、宗教はいい装置だと思うが。……だいたいお前、いまわの際になってもそう思えるか?」
「思ってやるさ。だいたい、俺が死ぬ場所は、自分の家の庭の、安楽椅子の上って決めてるんだ。陽だまりの午後、孫たちが遊ぶところを笑顔で見守りながら、俺は静かに旅立つって決めてる。そしたら孫たちが言うんだよ。『あれ、おじいちゃん、息してないよ』ってな。誰が戦場で死ぬか」
「なんだそれ。天国妄想よりもひどい。だいたい子どももいないだろう」
「結婚もしてないからな」
「そんなことは聞いてない」
だが南波なら本当にそうかもしれない。息絶える瞬間まで、この男は生きようとするだろう。今まで何度も出撃してきたが、必ず帰ることを考えていた。あの映画を観ていない、帰ったら何を喰う、手当が安すぎる、エトセトラ。生への執着を感じさせないほど、南波は死の臭いがしない。だからこそ、五五派遣隊で生き残っているのだろう。おそらく私も。話ながら、私は天国の存在など信じていない。宗教は人が生きる上での支えになるべきもので、あくまでも手段であり目的ではあり得ない。連邦合衆国の軍隊では、アイコンとしての十字架を首から避げる兵士も多いと聞くが、私たちの国では一般的ではない。そもそも私たちのかみさまは森羅万象どこにでもいるから、わざわざアイコンを作る必要がないというせいもあるかもしれないが。八百万の神々と昔の人々は言った。木にも水にも家にもかまどにも、何もかもにかみさまがいるのだ。今現在も。それが私たちの帝国の姿だ。
「無責任だ、」
伊来がうつむき気味に言う。
「伊来さん」
「遊佐は、……天国なんて考える暇もなく、やられた。声をかける時間もなかった。人が死ぬ瞬間に天国を見るとか、そんなことはどうでもいい。考えるまもなく死んだ人間はじゃあ、どこへ行くんだ、准尉?」
「どこへも行きはしないさ、伊来中尉」
南波が、やけに明るく言う。
「あんたの中にいるんじゃないのか。……あんたの相棒は、残念だけれど、飛行機と一緒に川に沈んじまった。けど、存在はあんたの中に残ってるんだろうよ。俺もあんたに賛成だ。天国なんて、弱い奴らの世迷い言さ。こいつ……入地准尉が言うとおりさ。イメージが陳腐なんだよ。天国は空の上? 地獄は火山の火口みたいなドロドロの場所? ふざけるなさ」
「南波、お前は相変わらずだ」
「そう思わないとやってられん。俺は何人殺してきたと思う? 天国なんてものがあるんだったら、俺は天国ツアーの斡旋業者だ。誰がどう天国行き地獄行きを評価してるんだか知らないが、俺の所業を普通に考えたら一撃で地獄行きだ。小さい頃はそう教わってきたからな」
人を殺めた人間は例外なく地獄へ。この国の標準的な道徳観だ。
「けど俺が地獄へ行くとしたら、それは温泉旅行だな。寒い場所よりあったかい場所なら大歓迎だ。ワタスゲだかタンポポだかが咲いてるお花畑ってのは、准尉、あんたの故郷の観光案内の絵ハガキみたいだぜ。ようするに寒いってことだ。俺は海峡の向こう出身だからな。避暑地の天国はごめんだぜ。今度『地獄谷』が名物の温泉があるから、一緒に行こう。おごってやる。ただし部屋は別々だ」
どこまでが本気なのかよくわからない。
「ただ、」
南波が歩き始めた。
「言葉は悪いが、気休めにはいいかもしれないな。……死んだ連中が、もしみんな天国にいるのなら、そこで幸せにやってくれればいい。残った俺たちがそう思って楽になれるなら、そう思えばいいんだ。死んだ人間は俺たちのことなんて考えられない。死んだ人間を考えられるのは俺たちだけだからな。……考えるのも面倒になるが」
「南波、一言多い」
「入地准尉、ありがとう」
伊来が半身、私に振り返る。
「私を気遣ってくれてるんだろう」
「そんなつもりはありません」
「違うのか」
「あなたは、戦闘機乗りです。……もしかすると、私や南波少尉がいままでに殺してきたよりずっと多く、……いろんな人間を天国に強制的に送っているかもしれない。そんなあなたに、気休めなどは言えませんよ」
「そうか、」
「行きましょう。ちょっとおしゃべりが過ぎたようだ」
「結局、」
南波。
「そのワタスゲの原っていうのは、本当にないのかね」
ワタスゲの原。
三六〇度、まばゆいばかりのワタスゲが揺れる場所。
二度と戻れない場所。
「さあ、どうかな。任務で行けと言われれば、私は行く」