トモの世界
山岳地帯で発達した文化を持つ民族で散見される話だ。南大陸の少数民族などがその典型で、洞穴の多い地形で発達した文明を持ち、だから建築技術はほかの文明と比べてもつたなかったが、建築に労力を割かなくてもよい分、文化的な面で特筆すべきものをいくつも残した。大規模な壁画は、中世の西方教会に描かれた宗教画にも匹敵する彩色と筆致で研究者たちを魅了する。自然光の届かない洞窟内で、たとえば松明やろうそくの灯りだけで正確な彩色が行われたことも驚嘆すべきことだが、彼らの「神話」は、地下世界と深く関わっていることがめずらしい。そう、「地下の世界の天国」だ。
「俺は何度もケービングをした。訓練でだけどな。けど、あれは人間の住む場所じゃないな。湿度は高い。コウモリだの地を這う無数のゴキブリだの、それを食らうやたらと足の生えた虫だの、得体の知れない気色の悪い生き物の巣窟だ。なにより健康によくないぜ。お天道様がそばにいてくれないと、俺はダメだな。人間は夜行性の動物じゃないってつくづく思い知る」
「私もそう思うな」
伊来の口調が砕けてきた。やはり彼女は私たちよりも年少なのは間違いない。少女の面影が見え隠れする。するとやはり彼女はエリートだ。パイロットの目は共通して子どものように澄んだ色を持っているが、伊来中尉のそれは別格に思えた。ことによると、遺伝子的エリートなのかもしれない。
「それにしても、南波少尉。洞窟の中に天国なんて、私は初めて聞いた」
ずいぶんと打ち解けた口調で伊来が南波に言う。よかった。心までガチガチでは、身体まで固まってしまう。それでは拠点まで速度と体調を維持しながら歩くことすらままならない。パイロットたちは座ったままで戦場に行くから、徒歩で戦場に向かう私たち陸の兵士と違い、長距離行軍のスキルが著しく低い。
「例外的な分類だと思うよ。私は。南大陸の話だと、地下洞穴が網の目のように発達していたその特殊な立地から、生活範囲がどうしてもほかの民族より偏っていたからだ。そういう生活をしていれば、身近な場所から天国が続いていると考えても不思議はない。私たちの国でも、山がちな地域だと、伝承として、山の奥のどこかに死者の国があると言われているし。
けれど、やはり多くの民族では、天国は地の底ではなく、空にあることが多い。伊来中尉が言うように、花畑があったり、北方民族だと、氷の世界の向こうに安寧の地があると信じられていることもあるけれど、それでもやはり光に満ちた世界だ」
「イメージが貧困なのかね、人間は。それこそ、姉さんの言う『天国モードプリインストール状態』ってことかね」
「由来はなんとなくわかるよ。人間が死の直前に、というか、死に直面するような極限状態で見る幻覚のことだろう」
伊来がためらいがちに言う。
「そうですね。いわゆる、臨死(ニア)体験(デス)という、極限状態で脳に麻薬によく似た物質が分泌されて苦痛を緩和する。その副作用的に、みな同じようなイメージを得て、それがおそらく全世界で普遍的な天国イメージができあがったのではないかと、そう言われていますね」
「言われていますねってことは、お前の意見は違うのか」
「例外があるってことは、ちょっと違うんじゃないかと思うわけだ」
「どういうこと?」
「伊来中尉、立ち止まっちゃダメですよ。疲れたら休憩します。あと一時間、行きますよ」
「すまない」
雨脚は強まることはなく、ぽつりぽつりと私たちの肩を打つ。
「そこで最初の命題に戻るわけです……天国は、死後の世界は本当にあるのかどうか」
「ないだろう。あるわけない」
南波が即座に否定する。
「私もそう思う」
伊来中尉も同意する。
「ないでしょうね。そう考えるのが合理的ですから」
私も同意する。
「話が終わるじゃないか」
「いや、そこで十五年前の北方戦役の話です」
十五年前に一旦停戦した第一次北方戦役。帝国と北方会議同盟(ルーシ)連邦との資源紛争に端を発し、結局北部自治域からシェルコヴニコフ海沿岸全域を巻き込んだ大戦争に発展した。北緯五〇度からさらに北、そしてその東、庫裏(くり)流(る)諸島の領有権まで巻き込んだ戦い。帝国海軍は北方艦隊の三分の一を失う大損害を被った。結局どちらが勝利したのかわからないほど曖昧な停戦状態となり、結果今回の戦争に繋がった。
「この北部自治域……もうちょっと狭めれば、北洋州のどこかに、地平線まで広がる『天国への入口』が存在する、そういう噂がパイロットの間で広まったんです。ワタスゲが一面に咲いていて、霧が巻いているけれど、空は抜けるように青いって場所」
「ワタスゲってなんだ?」
「タンポポの綿毛みたいな、ソバの花みたいに白い草さ。北部自治域ならどこでも生えてる。内地なら高原の湿地に生えてる野草。見たことないか。見たことがないものを、絵も描かずに口頭で説明するってのは難しいな」
「別にそこまで求めてない。ようするにフワフワの花ってことだな」
「そう。あれはきれいだよ。このあたりでも群生があるはずだ」
「じゃあ、本当にあるんだろう。天国への入口とかそういう胡散臭いシロモノじゃなく、そういう場所が」
「……その話、聞いたことがある」
「伊来中尉、」
「ワタスゲの原。……一面の。かならずそこは晴れていて、暖かくて、動物もいなくて、でも、鶴の営巣地があって、いつも鶴が飛んでいる……、戦闘機の残骸がぽつぽつ落ちているけれど、廻り一面どこまでもワタスゲの原だっていう。今はほとんど信じられていないけれど、古参のパイロットから聞いたとこがある」
「私も元パイロットから聞いたんです。おおむね、私が聞いた話と同じですね」
「けれど、そこへは行けないって。……撃ち墜とされたパイロットだけが行ける場所だって」
「何? なんだそれ、」
南波があきれたような顔をして聞きかえした。嫌いなのだ、この手のたぐいの話が。南波は徹底した現実主義者で空想家ではなかった。むしろ空想家の特殊部隊少尉がいたら、私は配転をさらなる上官に進言するだろうけど。
「どれだけ探しても、そんな場所はなくて、行ったら帰ってこられないっていう、そういう場所だと」
伊来中尉が引き取り、話を続けた。
「墜落したパイロットだけがたどり着ける場所で、そこは天国への入口だっていう話」
一種、戦闘中の極度のストレスが生み出す幻想なのかもしれないと思われたが、そのワタスゲの原」のイメージは具体化されて、当時の空軍パイロットたちの間で、「戦死した後集う場所」として信じられていた。冗談のような本当の話だった。戦場では冗談のような本当の話が冗談のように信じられることがある。それもまた、世界で普遍的に発生している奇妙な話。都野崎の紀元記念公園あたりでその手の話を行く人に話しかけたなら、みな怪訝な顔をして避けていくだろう。だが、最前線の戦場では、そうした世間的には与太話に分類されるべき妄想世界がすんなりと居場所をあてがわれているのだ。幽霊兵士や幽霊戦艦、果ては雲間から現れて前線兵士の命を奪うという幽霊飛行船の目撃談まで。それらの本気の狂気がはびこるのが最前線の塹壕の中であり、前線基地の兵舎の中であり、宿営地の酒保の即席カウンターの中での話なのだ。