トモの世界
「食べなくていいのか、」
南波が、私に放られた非常食を見て言う。
「私は、今朝基地でしっかり食べてきた。君らにやる。風連奪還戦は一週間前だった。君らはずっと作戦行動中だったんだろう、君らの方が必要だ」
「全部はいりません。あとできちんと分配しましょう、中尉」
私が言うと、南波はビーコンを拾い上げ、チェストハーネスに挟み込んだ。スリングを直し、私に目線で合図をくれる。出発しよう。
サバイバルキットはたいして重さもなかったが、私たちがバックパックを失っているため、どうしても搬送にかさばった。非常食は三人で分配して、国道をさらに南下する。
「伊来中尉、」
歩きながら私。先頭は南波、二番手が彼女、最後尾を私。装備や戦闘能力からすると、パーティの順序はこうなる。もっとも白兵戦に弱そうなパイロットを前後から守る形になる。
「なんだ、」
「今日の目標はどこだったんです」
「機密だ」
「話してくれよ、」
「なぜ陸軍に言わなければならない」
「どうせ戻ったらわかるんだから」
「では戻ってから確認すればいい」
「縫高町ですか」
「あそこにもう軍事目標は何もない。支援戦闘機(FS)叩きつぶしたから」
「対空砲火でやられたのですか」
南波は前を向いたまま。
「低すぎたんだ。……遊佐が警告してきたのに」
伊来は淡々としゃべる。もしかすると……、彼女は相当強い調律(チューニング)を受けている。パイロットは私たちとはまたまったく違う強いストレスにさらされる。それを緩和させるというより、意識させない方向で補強が入ると聞いたことがある。そのかわり、常に精神的抑制と補強をかけ続けなければならない。さもないと破綻する。だから、戦闘機のパイロットは、彼ら彼女らが駆る戦闘機と同じように、整った設備でのメンテナンスが欠かせない。そしておそらく、敵の対空砲が強固なフレームで知られる六四式を撃ち墜とすくらいの抵抗を示す場所というと、空沼川の河口からさらに洋上へ抜けた、メタンハイドレートの採掘施設に違いない。私はそう直感した。地上部隊が接近できないため、もっぱら航空攻撃の反復が実施されている。
「任務の話は、またにしましょう、伊来中尉」
私の前を行く伊来の背中。派手に散った血しぶき。後席に乗っていた彼女のクルーは、座席が射出される前にきっと絶命していたに違いない。コクピットに命中弾があったのか、破片がキャノピを貫いたのかはわからないが。
死の世界へ。
「空軍のパイロットから聞いたことがあります。あなたが知っているかどうか、」
「なんだ、」
「拠点まで歩く、その時間つぶしだと思って聞き流して下さい。たいした話ではないんです。だから真に受けないで」
「わかった」
パラパラと雨が落ちてきていた。飛行服姿の伊来はやはり寒そうだ。私たちは彼女の機体の墜落で水しぶきを派手に浴びていたから、すでにかなり寒かった。
「第一次北方戦役での話です」
「ずいぶんと前の話だな、」
「十五、六年前か」
先頭の南波。しっかりと話を聞いている。
「そのときに戦ったパイロットたちの間で話されていたことです」
「空軍の」
「ですね、空軍の。……伊来さん、『死後の世界』ってあると思いますか」
雨音。
「死んだらどこへ行くのか、気になったことはありませんか」
「そんな話は今したくない」
「暇つぶしです。聞き流して下さい」
「気になったことなんかない」
「もし『死後の世界』……天国があるとしたら、」
南波がどんな気持ちで私の話を聞いているのか何となくわかった。……また始まった。これだ。
「天国があるとしたら、どんな場所だと思いますか」
「知らない」
「おおむね、『天国』というくらいだから、それは空の上にあると思われてる。これって、世界的にはなかなか普遍的なイメージなんですよ。逆に云うと、普遍的すぎて陳腐だけれど、」
足音。
「帝国の宗教でも西方の教えでも、死者が天へ上っていく宗教画がいくつもあります。だいたい空の上に天国があると思われているわけです」
「毎日飛んでいるが、そんなものはなかったよ」
「そうでしょうね。私もそう思います。けれど、どうして『死後の世界』のイメージが、時も場所も隔たって共通、というか普遍的なんでしょう。不思議だと思ったことはありませんか」
「そんなことは考えたこともない。……陸軍ではそんなことをいちいち考えながら作戦を行うのか」
「姉さん、俺たちが誤解される」
「伊来中尉、人間の頭の中には、そういう『天国モード』がプリセットされているんじゃないかって、私はときどき思います。あなたはどうです?」
「私は死後の世界なんて信じない。私は神様を持たない。そんなものがいるなら、戦争なんて起こらない。違うか」
「宗教論をしようなんて話じゃないんです。ただ私は、『天国』って言葉に、なぜ空の上がいつでもどこでも想起されるのかが不思議だと思っているんですよ。海の底が天国だとか、そういう文化もあるでしょうし、洞窟の奥には神々の世界が広がっているなんて神話を持っている文化もありますけど、けれど、だいたい、世界的に普遍なのは、やっぱり空の上には死後の世界への入口があるっていう、ごくごくシンプルで、しかも陳腐なイメージなんですよ」
「なんとなくそれはわかる気がする。入地……准尉、君も空を飛んでみたらわかる。雲の上には、確かに神様がいるような気はする。でもそこが天国だとは思わないけど」
「おや、伊来中尉、」
「南波、茶化すなよ……失礼、南波少尉」
「よろしい」
「私は戦闘機には乗ったことはありませんが。輸送機から空挺降下する前、空を見て、たしかに『天国があるとしたらこういう場所かもしれない』と思ったことはあります。縁起が悪いのであんまり考えないようにしていますが」
塗り込めたような空。直視していると酔いそうなくらい白い雲。遥か高空を漂う彩雲、雲に落ちた輸送機の影と、それを囲む虹。地上の猥雑さなどかけらもない世界。
「お前そんなこと考えながら飛んでいたのか。勘弁してくれ」
「南波、ちょっと黙っててくれないか。雑談だけど、いちいち合いの手を入れないでくれないか」
「そいつは失礼。リード・オンリー・モードに移行するよ」
私が言うと、伊来がくすりと笑った、ような音が聞こえた。
「でも、ほかにもイメージがあるんじゃないのか」
伊来が言う。
「どんなですか?」
「……花が咲いてるとか」
「なるほど」
「川を渡るっていうのもある」
「だから棺に硬貨を入れる風習がありますね」
「光が満ちた世界」
「そうですね。暗い天国はイメージとして斬新だけれど聞いたことがない。真っ暗闇のじめじめした天国なんて、聞いたことがないですよね。斬新だけど」
「斬新……そうなのか?」
南波がにやりと言う。
「南波……少尉、なにかほかのイメージでも?」
「昔読んだことがあるぜ。さっき姉さんも言ったじゃないか。巨大な洞窟を住居にしている部族があって、その彼らの宗教では、死者は洞窟の奥に送られて、地下の世界で蘇るっていう系統の話だよ。海の底の天国の話は知らないけどな」