トモの世界
昨日までの私が知りえない情報が、いまの私の周囲にはもううんざりするほど散らばっている。だからこれは現実だ。五分後には死ぬかもしれない現実だ。
わずかな時間だったと思う。私の意識は分離していた。目は周囲の状況を確認しているし、右手から銃は離れていない。だが、私は自分の意識の中を探った。この世界が私の外側にあるものなのかどうかと、答えがあるはずもない問いにたいする答えを、私の中で探していた。南波が私を呼んでいることに、だから数瞬、気づくのが遅れた。戦闘中なら……いまも戦闘中なのだが……致命的な時間。
「入地准尉、どうした。負傷したのか」
南波が私のすぐ横にいる。CIDSのディスプレイをヘルメット上部に跳ね上げ、肉眼で私を見ている。まっすぐに。動物のような獰猛な、しかし血の通った瞳で。顔は汗ばみ、土埃があちこちにこびりつき、出撃前に塗りこんだ迷彩と混じり、白目がやたらと目立つ。
「准尉」
返答をしない私に、南波は右手を銃から離して私に伸ばし、私の頬に触れた。つかむように。
私は返答する代わりにCIDSのディスプレイ部を南波と同じく跳ね上げた。ロックを解除すれば、ヒンジはとても軽く、小指を使ってでもCIDSは跳ね上げることができる。見た目はごついが、ヘルメットが航空要員用並みに軽量化しているため、全体としての重量はさほどでもない。その分、小銃弾を正面から受けると、このヘルメットは割れる。
「姉さん、敵が来る。……俺を見ろ。俺だ」
「……大丈夫」
グローブ越しにも、南波の手のひらの体温が感じられる気がする。
「どうしたんだ」
耳鳴りのせいだと思う。
「耳鳴りがひどいか。俺の声が聞こえるか」
聞こえる。
「よし、ここを離れる。制御室は友軍が確保した。プラントは向こう一ヶ月は再起不能だ。……姉さん、ミッションはここまでだ。敵が来る。空からだ」
「帰るのか」
「ここを離れる」
私はうなずく。
「よし」
南波は二度うなずき返し、私の頬に触れていた右手で私のCIDSを降ろす。上げるときはロックを解除するが、降ろすときは、かちりと音がして簡単に固定される。私は左手の親指を立ててみせた。連邦合衆国の兵士がするように。サム・アップ。それを見て南波も自分のCIDSを降ろし、中腰で私から離れた。
「オールステーション。周囲十八キロに敵地上部隊の脅威はない。が、敵航空部隊が急速に接近している。当地上空まであと二分もかからない。八一式がインターセプトしているが、撃ち漏らしたやつらがここに来る」
「どうやってここから離れる。そこの転がってる装甲車を戻すか」
田鎖が九二式機関銃を抱えて駆け寄る。中腰で。いくら敵地上部隊の脅威がないと判定されても、背筋を伸ばして歩く気がしない。
「洋上で待機していた七七式ヘリが健在だ。呼び戻す」
「護衛もなしにか」
「モールリーダーからルピナスヘッド。作戦中断指示を受領。レラフライトのエスコートを要請する。こちら、全員健在、繰り返す……」
『ルピナスヘッドからモールリーダー。レラフライトは〇四から〇七がダウン。〇一から〇三、〇八が向かう。十五分待て』
「了解した。聞いたか、エスコートは残ってる」
南波が全員に下命するように了解を告げる。
「やれやれだ。結局、前回のお前たちと似たような展開になったな」
瀬里沢は自分の4726小銃から一度弾倉を抜き、残弾数を確認するようにしてまた銃に戻した。意味のない動作だが、彼なりのスイッチの入れなおしなのだろう。
「前回とは違う。行きも帰りも頼もしいエスコートがいる」
「敵攻撃機が迫っているのにか」
「こっちへ向かってる敵機は25型戦闘攻撃機だ」
CIDSの敵情報表示。同盟空軍25型戦闘攻撃機の編隊。総数一七機。一分前まで二四機だった。友軍の八一式が七機を撃墜した。
「プラントは広い。ここは裏門の裏門だ。本体は方位三六〇へ九キロも行ったところだ。西側ゲートに二二師団の部隊が展開中だから、敵攻撃機はそっちに向かっている」
「そんなことは俺にもわかる。だが、分かれてこっちに来たらどうする」
「歩いて帰りたいのか」
「そうは言っていない。安全が確保されない」
「瀬里沢、先任は俺だ」
瀬里沢も少尉だ。だが現在のチームD指揮官は南波だ。
「キャプテン面があとで後悔しないか」
「なにを言っている」
「俺は入地のように、わけのわからん猟師村で魂抜かれるのはごめんだ」
「私は魂など抜かれていない」
たまらず私は反論する。
「あんたは南波にかわいがられているみたいだからな。そもそも俺はあんたと蓮見のピックアップにも反対した。敵勢力下で何日過ごしたんだ。隔離(スクリーニング)して再起動(リブート)させないと危険なはずなのに」
私は二の句を継げない。確かにそうなのだ。敵勢力下でさまよい、捕虜にこそなっていないが、しかし私のパーソナルマーカーはずっと沈黙したままだった。ようするにどこで何をしていたのか、私の主観的な言葉でしか、私自身の状況を説明できない。ほんらいなら、私たちは後方へ送られ、瀬里沢の言うとおり他の隊員からは隔離され、徹底した思想テストが行われ、その後あらためてリブート……肉体も精神も再起動するのが正しい手順だ。南波はそれを省いたと責められている。
「いまここで論議しても始まらない」
南波はまっすぐに瀬里沢を向いている。
CIDSに脅威接近の警報。
遅れて地響き。
「伏せていろ」
言われる前に全員が遮蔽物を探して伏せている。敵攻撃機による爆撃だろう。数秒たってから爆発音が届く。距離はある。CIDSの表示、敵残存勢力、25型戦闘攻撃機が八機。八一式要撃戦闘機十二機が敵編隊を攻撃中。
「近い、」
蓮見が鋭く叫ぶ。
亜音速で低空を25型戦闘攻撃機の編隊が急接近している。だが針路は微妙にこちらからずれている。被弾しているのだ。黒煙を曳きなんとか上昇しようとしている姿が肉眼で見える。二機。背後にけし粒のような大きさで友軍機。空中戦は、大洋戦争の以前ならばともかく、彼我の距離は数マイルの隔たりを持って行われる。黒煙を曳いた敵機のうち一機の左主翼が付け根からもげた。左側の揚力を失った機体は急激に回復不能の横転に入り、高度の余裕もない状況で、そのまま森林に突っ込むしかなかった。光。爆音。
「敵航空勢力は分散している」
蓮見が先ほどのような姿勢で空を仰いでいる。
「防空識別圏外に敵の新たな勢力だ。同じく速い」
スーパーサーチにした私のCIDSの戦闘情報ウィンドウにも脅威が表示されている。敵の二次攻撃隊だ。迎え撃つため、友軍の空母から防空戦闘機部隊が次々と飛び立った。東の空に友軍機を示す青の表示が一気に増加する。
「瀬里沢、まだここは俺たちの空だぞ」
「そういうことにしておいてやる」
『レラトランスポート〇一からモールリーダー。「アルファ」に接近中。脅威判定がレベル三に上昇。玄関先まで迎えに行くことはできない。大通りまで出てきてくれ。位置を示す。NAVモードに切り替えろ』
七七式汎用ヘリコプター機長からの声。