トモの世界
この音はなんなんだ。私は目を開いたまま、銃から手を離さず、一歩踏み外せば狂気に支配されそうな心を、唸るような声を上げながらこらえた。
涙が流れていることに気づいた。
辺りを支配しているのは、やはり狂気だと思った。
私は這うようにして南波に近づいた。
蓮見は銃から手を離し、両手で耳をふさいでいた。
田鎖が鬼の形相で九二式機関銃を構えていた。
空気がびりびりと振動しているのがわかった。
私はすでに、自分の聴覚が今後喪われる恐怖を感じていた。
CIDSのモード切替を視線で行おうと努力したが、私の目は言うことを聞かない。視線が泳ぐ。ダメだ。
おそらく、音の洪水が沸き起こってから、五分とたっていなかったと思われた。爆発的に私たちを襲った音は、やはり唐突に終わった。
残響が上空へ響いていく。そのとき、私は聴覚がまだ残っていることに気づく。しかし、すさまじい耳鳴りがした。
「南波!」
私は叫ぶ。ありったけの声で。だが、耳に分厚い蓋をしたように、私の声は思ったほどに響いてこなかった。
「全員、不用意に立ち上がるな。その場で警戒」
南波の声。怒鳴っているような口調はわかったが、スピーカーの音量を絞ったようにしか聞こえない。
「音響兵器だ……」
蓮見が呆然と言う。CIDSが補整しなかったら、まったく聞こえなかったはずだ。
耳鳴りは、私の感覚が慣れたせいなのか、それとも実際に収まりつつあるのか、小さくなってきていた。
「音響兵器?」
瀬里沢が近寄ってくる。匍匐しながら。
「そんなもの、」
「いまのがそうだよ」
蓮見も涙を流していた。
「全員、耳は聞こえるか」
南波。五人を見まわし、言う。
「なんとか」
私。
「耳鳴りがすごい。スタングレネードをイアマフなしで食らった感じだ」
田鎖は言うと、大きく口を開いて鼻をつまんだ。耳抜きの動作だ。
「レラフライト、こちらモールリーダー、感あるか、明どうか」
南波がヘリコプター部隊に通信。返事はない。
「墜ちたよ。見えた」
私が彼らの代わりに答える。
「全機か」
「三機墜ちたのが見えた。あとはわからない」
「CIDSに反応がない。四機全滅だ」
瀬里沢が耳をしきりに指で触りながら言った。
「ヘルメットは脱ぐな。引き潮だ……いやな予感だ」
南波が瀬里沢を抑えるように言う。狙撃を恐れている。周囲十八キロに脅威目標は存在しないはずだ。私は小銃弾による狙撃よりも、もっと大規模な反撃の可能性を考えていた。
「音響兵器なんて、存在するか。どうやって運用するんだ」
田鎖が蓮見に鋭く言う。
「現実にさっきのがそうじゃないか。なによりの証左だ」
「あれだけの大音量を出す機械を、車両で運搬できるかよ」
「そんなことはわからない」
「とにかくだ。蓮見の言うとおり、同盟側の攻撃なのは間違いないだろう。音響兵器なんて聞いたこともないが、先ほどの奴は自然現象ではない。明らかに俺たちを攻撃したんだ。第二波に備えたほうがいい」
南波は言うとすぐにヘルメットの横側、CIDSのイアフォン部分を耳に密着させた。砲撃など、騒音が激しい場合の通信能力確保のため、ヘルメットの耳の部分は簡易的なイアマフの構造をしている。普段は使用しない。外界の音に敏感でいられなくなる。しかし、いま二次攻撃を受けた場合、全員が急性難聴に見舞われるのは確実だった。そのまま聴覚を永久に失う可能性もある。私も南波にならい、イアマフをせり出させて固定した。
視界に赤のフラッシュ。CIDSが警告レベルを上げた。直接的脅威が迫っていることを示す警報だ。
「……敵、攻撃機……接近」
距離、五十マイル……九十キロ少々……を切っている。目標多数、接近する速度が速い。マッハ一.八。
「オールステーション、艦隊が対空戦闘に入る。その場を動くな」
南波が叫ぶ。耳鳴りのフィルターがかけられているが、CIDSの増幅でそれなりに聞こえる。危機感のある声。
「こうなると思っていたよ」
つぶやきも増幅される。これは瀬里沢だ。
私はCIDSの索敵モードをスーパーサーチに切り替える。衛星、そしてシェルコヴニコフ海の後方を飛行している早期警戒管制機からの情報、それらを調理し、適切な情報を抽出して表示される。敵航空部隊が急速に接近中。友軍が航空優勢を確保し、臨時の防空識別圏を設定しているそのすぐ外輪に迫っている。おそらく、前線基地から空軍の八一式要撃戦闘機がいままさに次々と全力で離陸しているだろう。空中戦闘哨戒中の作戦機も同様だ。
プラント上空を飛行していた戦闘機は「音」の損害を受けなかったようだ。速度と高度、そしてヘリコプターとは比較にならない気密性がなせたのだと思う。視界に、「撃墜」された友軍機の情報はないからだ。八九式支援戦闘機が洋上へ退避するのが見える。八九式はあくまでも地上目標の殲滅や、敵水上部隊の進行阻止を目的に開発された戦闘機で、空対空戦闘に特化してはいない。身軽で小回りの利く機体で、低空での操縦性を優先するため、翼面荷重も低い。結果機動性も高く、格闘能力に優れる機体だが、重武装にエンジンパワーにものを言わせる八一式要撃戦闘機とは空戦能力で敵にならない。GBU-8自己鍛造爆弾を投下した彼らは、護身用の短距離空対空ミサイルと対空機関砲しか持たないのだ。
「八一式……」
蓮見の声に彼女の姿を見ると、ヘルメットを左手で押さえるようにし、小銃を左手で確保し、苦しげな姿勢で匍匐したまま空を見上げていた。私も同じように彼女の視線を追う。スーパーサーチにしたCIDSが、八一式要撃戦闘機の姿を捉える。といっても肉眼では見えない。高度はおそらく三万フィート前後、敵攻撃機と同じように超音速巡航(スーパークルーズ)。私が確認できるのは、ディスプレイ上に捕捉された友軍を示す青のTDボックスで囲われた「なにか」が高空を駆け抜けていく姿だけだった。
私は昨日……いや、今朝までのイルワクの村での数日を思い出す。
どちらが現実だったのか、と。
どちらも現実だ。時系列的に事象が進んでいるだけだ。記憶が新しいぶん、「目標アルファ」の前で詳細不明の「音」に襲われ、地面に伏せている「いま」が生々しい。イルワクの村の風景や、ターニャとかわした言葉が遠くに感じられるのは、濃密すぎるいまの時間が、それだけ脳を刺激しているからだ。あちらが夢の世界だったわけではない。私が実体験した現実の一部だ。
けれど、と友軍機が敵へ向かって一直線に消え去っていく様子を、自分の目で見ることもできず、「戦闘情報」としてただ視認しているいまの私は思う。イルワクの村での出来事が夢ではなかったと言い切れる自信はあるのかと。それはばかげた疑問だった。たんに、私をとりかこむいまの状況が、ここ数年来私の日常の風景だから、平穏で平淡だったあの数日間の現実感がないだけだ。
あのワタスゲの原で私と蓮見は行き倒れ、イルワクの村は存在せず、この戦闘は、私が黄泉へ向かう道中、私の脳が勝手に作り出した物語だとしたら。
ありえない。
絶対にありえない。