真冬の幻 第2章『例えばこんな奇っ怪な日常』
俺は初めて女子の服を来た日のことを思い出す。男が履くトランクスとは違い、ショーツは下腹部を覆う部分が少ない。別に男の時と違って隠すものはあんまりないからいいっちゃいいが、俺にとってそれはそれで非常に寂しかったりもするのだ。ブラジャーに関しては完全に未知の領域だった。最初は発情するといけないとか言いだした真冬が俺に目隠しを付けようとしたが、流石にそういう訳にもいかないので、渋々付け方をレクチャーしてくれた。
ファッションに関しては下着以上にチンプンカンプンだった。どれが流行で、どれが違うのか、俺にはちっとも分からなかった。そこに関しても全ての主導権は真冬が採り、俺にありとあらゆる手ほどきをしたのである。
女の恰好をするようになって、いよいよ男としての意識がなくなっていくかとも思ったけれども、不思議なことに男としての意識が消えることはなかった。いくらショーツを履いて、ブラジャーをつけていようと、俺はやっぱり男だった。
まあそれはともかくとして、俺はとにかく早く冬が終われと思った。だが残念ながら北海道の冬は長い。俺はもうすばらく寒さと戦わなければならないようだ。
「ほらほら、さっさと歩く!」
この寒さの中でも真冬は元気だった。真冬はちんたら歩く俺の背中を押しながら歩き出した。
数分歩くと、昨日も乗った市電の駅が見えた。どうやら電車に乗ってどこかに行くらしい。駅には俺たちの他に人はいなかった。土曜日の朝なので昨日いたサラリーマンや学生は恐らく家にいるのだろう。俺と真冬は丁度到着した電車に乗り込んだ。
電車は何事もなく進む。しかし、三駅ほど通過した時だった。
「あ」
電車の入口に足をかけたまま榎本紗英は言った。彼女は明らかに困惑した顔を俺に向けている。
「とりあえず入ったら?」
俺がそう言うと、榎本は不審な挙動で電車の段差を登った。彼女は俺を避けるとそのまま真冬の隣に座った。そして小さい声で、「いるなら最初から言ってよ」と抗議した。
「まあまあ、親睦を深めるためだって。ね?」
真冬が榎本の肩に手を置きながらそう言った。俺と榎本は同時に溜息をもらしていた。
「さあさあ、着いたよ!」
真冬が言う。そこは市電の終点だった。いつの間にか増えていた人々はそそくさと電車を降りていく。俺たちもそれに倣って電車を降りた。
目の前に繁華街が広がる。北海道だと思って舐めてもらっちゃ困るが、観幌の中央は新宿の歌舞伎町にも勝るとも劣らないほどの街並みが広がっているのだ。どうやら真冬は三人で買い物をしたかったようだ。
真冬はダルそうな俺と、動きがぎこちない榎本を引っ張って動き始めた。
「新しいコートが欲しくてね。前々から狙ってたやつがあるのよ。さあ、行こう」
俺たちは丸井今井という某有名百貨店の二番煎じの様な百貨店に入った。そして真っすぐ四階の婦人服のコーナーに向かう。初めこそ挙動不審だった榎本だったが、服を見ると女の本性が出るのか、それとも俺の存在を忘れているのか、普通に楽しそうに二人で服を物色し始めた。
「ねえねえ秀……いや、お姉ちゃん、似合う?」
真冬がそう言いながらコートを身体に合わせている。多少荒っぽい面もあるが、見た目的には完璧な美少女である真冬には正直どんな服でも似合いそうだった。そして実際手に持っているコートは似合っていた。だから俺は素直に言った。
「凄く似合ってる。真冬らしくて可愛いよ」
俺がそう言うと、しばし真冬はポカンとした顔になった。何か気に障ったかとも思ったが、次の瞬間には満面の笑顔になった。
「ありがとう」
そう言うと、真冬はまた服を物色し始めた。
「そうやって女を口説き落としてきたの?」
いつの間にか隣にいた榎本が言った。
「んな訳あるか。素直に感想を言ったまでだ」
俺は榎本から視線を逸らした。
「ふーん。あんた、思ってたよりもずっとマトモな人みたいね」
「マトモって……。俺にどんなイメージ持ってたんだよ」
俺は呆れた顔を榎本に向けた。すると榎本は僅かに慌てた素振りを見せた。
「なんか変なこと言ったか?」
「え? いや、なんでもないわよ。別に何のイメージも持ってない。ただなんとなく、変なやつなのかなって、思っただけだから……」
榎本は色素の薄い髪を右側で結えている。顔は可愛いと言うよりも凛々しいと言った方が正しいかもしれない。しかし、左目の泣きぼくろがその凛々しさとは対照的に、彼女に僅かに儚げな印象を与えていることも確かだった。
「それにしても、真冬があんなに笑っているの久しぶりに見たかな。もしかしたら、あの子は、こんなのを望んでいたのかもしれないわね……」
ほとんど聞き取れない声で、榎本は誰にでもなくそう呟いていた。
4
昼飯を三人で食べると、俺たちは大通公園に向かった。夏であれば緑豊かなこの公園も、他の景色と同様にすっかり雪化粧をしていた。木々の葉っぱはとうに散りつくし、裸の枝が寂しそうに風に揺られている。色彩を失ったこの公園にとって、大きなテレビ塔の赤は唯一の人間の文明を感じることができる色だった。もし夜に来ればこのテレビ塔はライトアップされ、より一層美しくこの無色の敷地を照らし出してくれるのを見ることができる。
俺たちは人気の少ない公園のベンチに並んで座った。
「雪まつりまではまだ結構あるよね」
榎本がふと言った。雪まつりは毎年二月に行われる行事である。雪で色々なキャラクターの像をつくるというもので、全国的にも人気の高いイベントだ。その時期になると俺も友人と毎年ここを訪れたものだ。
俺は隣の真冬を見た。真冬や秋穂も毎年ここで行われる雪まつりに来ていたのだろうか? もし来ていたなら、俺たちはもしかしたらどこかで出会っていたのかもしれないなと、俺は思った。
「雪まつりは……」
真冬が言いかける。しかしそれ以上は何も言わない。ただ遠くを眺めているだけだ。
「真冬?」
俺が口を開くと、真冬はベンチから立ち上がり、そのまま公園の中央付近まで走っていった。そしてそこでくるっとこちらに振り向き、笑顔を向けながら言った。
「今度の雪まつりはみんなで行こうよ。みんなで行けば、絶対に楽しいだろうしね」
真冬は満面の笑みでそう言った。榎本はそうね、と言って同じく真冬に笑顔を向けた。それは本当に無邪気な、まるで子供のような笑顔だった。
「あ」
不意に榎本が声を出した。
「どうした?」
俺が尋ねる。榎本は勢いよく立ちあがると、向こうにいた真冬もこちらに駆け寄ってきた。
「おじさまに頼まれていた用事があるんだ。二時からだったから、あたしもう行かないと」
俺はふと公園の時計に視線を移す。時計の針は一時四五分を指していた。
「ぎりぎりじゃないか。間に合うのか?」
「うん。あそこの建物で落ち合うことになってるからね」
榎本は『株式会社アールテック』と書かれた大きな看板がついている大きなビルの横の、少し小さ目の建物を指さしながら言った。見ると一階は喫茶店になっている。
「随分近いんだな。じゃあ気を付けてな、榎本」
俺がそう言うと、榎本はなぜかキョトンとした顔をした。
作品名:真冬の幻 第2章『例えばこんな奇っ怪な日常』 作家名:遠坂遥