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真冬の幻 第2章『例えばこんな奇っ怪な日常』

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 俺は意気揚々とそれを取りだす。中身は当然ノートパソコンだった。もちろんその他一式も揃っている。俺はパソコン一式を数分でセットすると、電源をオンにした。そしてお気に入りの動画サイトを開くと、新着情報をチェックし始めた。
 「おっと、あれもあったんだった」
 俺はパソコンをいじりながら、さっき宏也からもらったもう一つの袋に手を伸ばす。その中には、大学生なら泣いて喜ぶ嗜好品が入っていた。ユウヒウルトラドライ。そう、いわゆるビールというやつだ。そしてつまみには柿の種に、さきいか。完璧だった。俺は缶の蓋に手を伸ばし、勢いよくそれを引き上げた。プシュ!っと小気味よい音が鳴り響く。俺は缶の開いた口を自分の口元に持っていく。それはまさに至福の時間だった。この一週間色んなことがあったが、この時ばかりは平穏を実感せずにはいられなかった。
しかしそんな安息な時間は長くは続かなかった。なぜなら、例のあの子がこの牙城にやって来てしまったからだ。
 ズンズンと、大きな足音が廊下の向こうから聞こえる。それはどんどんこちらに向かってきている。しかし俺は構わずビールを飲みながら動画を吟味している。そして、俺が柿の種に手を伸ばした瞬間だった。
 ノックもなしに扉が開いた。そこにいたのは、俺にとってはすっかり見慣れた少女だった。一ノ瀬真冬(いちのせ まふゆ)、この俺一ノ瀬秋穂の双子の妹である。優しくて気が利くが少々お節介な女の子。髪型は赤毛を後ろで一つに結えていて、瞳はとにかく大きい。鼻もスラッと高く、まるでテレビに出ているアイドルの様に可愛らしい少女だ。
 「明坂秀! あなたねぇ……」
 どうやら真冬は怒っているらしかった。全く身に覚えがないから俺はさっきと同様にビールを啜る。ちなみに明坂秀(あけさか しゅう)っていうのは俺の本名だ。そして一ノ瀬秋穂(いちのせ あきほ)は俺が身体を頂いた本来の身体の持ち主の名前だ。
 「女子高生がビールを飲むなー!」
 真冬が怒鳴る。そういえば今の俺は女子高生だっ。すっかり忘れていた。
 「ああすまん。ついうっかりしてて……」
 そう言いつつビールを啜る。
 「だから飲むなっていうの!」
 真冬が俺からビールを引っ手繰る。俺は恨めしそうな顔で彼女を見たが、そんなものは全く意に介さず缶を外に持ち去って行ってしまった。二分くらいして真冬がまた戻って来る。その手にはもう缶は握られていなかった。
 「俺のビールはどうした?」
 俺は憎しみを視線に込めて言った。
 「当然捨てたわよ。それよりも、何度も言ってるんだけど、自分のこと『俺』って言うのなんとかならないの? 女の子は俺、なんて一人称使わないんだけど……」
 真冬は俺を鋭い視線で睨み返しながらそう言った。
 俺が一ノ瀬秋穂になったのは、今からほんの一週間前のこと。ある日友人宅に向かっていた俺は、気が付くと病院のベッドで横になっていた。その部屋の窓からは、今にも泣き出しそうなどんよりとした空が俺の目に入っていた。
 俺が目覚めると、近くにいた看護師が大声を出して部屋を飛び出して行った。俺は訳が分からず辺りをキョロキョロ見回すと、そこには今俺の前にいる少女、一ノ瀬真冬の姿があった。もちろんその時は当然初対面であるが。彼女は俺をまるで死人が化けて出たのを見るような目で見つめていた。いや、実際にそうだったのだ。俺は実際に死んでいたのだ、そのつい数秒前まで。
 医者がやって来た。その横にはさっきの看護師もいる。どっちも真冬と同じ目をしていた。そしてこう言った。
 「これは奇跡です! こんなことは初めてです!」
 俺はふと初対面の美少女を見た。彼女の表情は驚きのあまり固まっていた。しかしそのすぐ後には、大粒の涙をこぼしてこの俺の身体にすがりついてきた。そして泣き叫びながら、こんなことを言った。
 「お姉ちゃん! 助かって、本当に良かった……」
 少女は俺を強く抱きしめた。だが、その時の俺にはこんな美少女が俺に抱きついてくる理由が思いつかなかった。だから俺は必死な様子の彼女に対して、
 「あんた、誰……?」
 と、言ってしまっていた。俺の言葉に全員が凍りつく。医者が尋ねた。
 「一ノ瀬秋穂さん、あなたは交通事故に遭ってこの病院に運ばれたんですよ? 覚えていませんか?」
 医者の瞳が不安の色を浮かべる。それは隣の看護師も、そして真冬も一緒だった。
 「一ノ瀬秋穂なんて人、俺は知りませんよ。俺の名前は明坂秀です。誰かと勘違いしているんじゃないですか?」
 そんなことを俺は女の声で言っていた。それが、俺と真冬のファーストコンタクトであった。
 素っ頓狂なことを言ってのけた俺は、記憶喪失の診断を下された。医者によれば俺は交通事故に遭ったそうなのだが、一ノ瀬秋穂には傷があったはずなのに、不思議なことにその時の俺には外傷など一つもなかった。なぜ傷がなくなったのかがそもそも疑問だったし、どこにも怪我がないのに記憶だけがおかしいというのも妙なことだった。MRIで検査もされた。だが脳にも一切の異常がなかった。俺だけでなく医者までもが困惑を隠しきれない中、真冬が俺の病室にやって来た。
 「入っても、いい、ですか……?」
 真冬は少し遠慮がちに言った。俺は「ああ」とだけ答えた。真冬は僅かに躊躇いながらも、俺の姿をじっと見つめながら部屋に入ってきた。真冬はベッドの横にある椅子に腰を下ろした。
 「あなたは、一ノ瀬秋穂ではないんですよね?」
 「ああ……」
 「じゃあ、あなたは誰ですか?」
 「……明坂秀。一応、大学四年生だ」
 俺の自己紹介を聞いた真冬は驚きを隠しきれない様子だった。それはそうだろう。せっかく目覚めた姉がいきなりそんなことを言い出したら驚くのは当然だ。
 真冬はそれからしばし何やら考えを巡らせているようだった。そしてほんの一瞬、ただでさえ大きい瞳を更に大きくカッと見開いた。それと同時に息を吸い込むような音も聞こえた。だがそれは本当にほんの一瞬だった。次の瞬間にはさっきの表情に戻っていた。
 「あの、明坂さん、お願いしたことがあるんですが、いいですか?」
 意外だった。こんな状況普通の人間ならとてもじゃないが信じられるようなことじゃないのに、この子が本当にあっさりと受け入れてしまったことに俺は驚いた。
 俺はあんぐりとした様子で彼女の顔を見つめていた。すると、
 「あの、明坂さん?」
 「……あ、すまん。お願いっていうのは、一体……?」
 真冬は僅かに躊躇った後、俺にはっきりこう言った。
 「姉の、一ノ瀬秋穂のフリをしてもらえないでしょうか?」
 それは俺にとって全く予想外のお願いだった。俺は動揺しながらもその理由を尋ねた。
 真冬は言った。もし俺が秋穂の身体に入りこんでしまっているのなら、もう元に戻る方法はない。そうすれば、俺はこの秋穂の身体でこれから生きていかなければならない。だから俺が生きていくためには、秋穂のフリをするしかない。それが彼女の語った理由だった。
 とんでもない話ではあった。だが、この状況下ではそれは俺にとって実に現実的な方法であった。俺は少しの間逡巡したが、真冬の一切の曇りも躊躇いも見当たらない瞳に後押しされ、俺はついに決断を下した。