煙になる
「いやね、あんた。そろそろ落ち着かないといかんだろ」
友人の説教が右から左に流れてゆく。氷を融かすアルコールを飲み下して、言いたいことも飲み下す。友人の言うことは全面的に正しい。だから、愚痴に近いそれを吐きだしてしまわないように飲み下すのだ。
「次が最後なんだと思う。まあ、最後になるからと言って、何が変わる訳じゃないんだとは思うけどな」
「まあ、そうだろうけどな。だけどね、このままふらふらとしているよりは、幾らも建設的だとは思うぞ」
無責任な言葉だ。目標を変えたからと言って、何が変わるというのだ。そう私は無責任に友人の言葉に内心毒づく。
別に世間を見返してやりたいと思っている訳ではない。だが、私の時間は刻一刻と削り取られてゆく。それが堪らなく怖くなってしまうのだ。
――そうして折れそうな心を、自己欺瞞の添え木で補強する。騙しに騙して、ささくれだらけの心は針のムシロだ。
「まあ、今に何か目に見えるモノが変えられる訳でなし、テキトーに見守っていてくれ」
そう言って友人と、そして自分を煙に巻く。
煙草の煙が昇ってゆく。紫煙はやがて天井に阻まれ、霧散する。今の自分だ。生き場所もなく、ただフラフラと漂う煙。
今にでも飛び出して、外の空気を吸いたい。この薄汚い店よりも、この汚れた空気に満ちた街よりも、遥か外の空気を吸いたい。
そう一頻り妄想して、私の意識はアルコールの中に水没した。
そしてアルコールの水槽は、やがてオケアノス――海へと変わる。海流に流され、月夜の下、化け物だらけの深海、積乱雲の下、サンゴ礁の上、そして人の去った無人島をぐるぐると周回する。千夜にも一夜にも感じる旅路だ。
――やがて深海の砂漠に横たわる一頭の鯨の元に行き着いた。鯨は深海の化け物どもに食まれ、朽ちていく。
彼は孤独に、海の砂漠で朽ちてゆく。よみがえることもなく、現世と冥界の狭間の海を行ったり来たりする。それはとても寂しく悲しいことだ。
鯨よ、お前はそれでいいのか?
――鯨は答えない。
目を覚ますと、私は自室のベッドで眠っていた。日は既に高く昇っており、休日の朝を無為に過ごしてしまったようだ。
「気分、わる……」
冷蔵庫まで這って行き、中の生理食塩水をがぶがぶと飲み干す。飲んでも飲んでも喉の渇きは癒えない。
そして気が付く。この胸を焦がす胸の熱さは、酒焼けでも水分不足でもないことに。
――そうして私は、ようやくその化け物の正体に気が付いた。
私はそれを認めると、最後の原稿用紙にすらすらと言葉を載せていく。それを引き出しに叩き込み、窓際に座ると煙草を一本口にする。
煙草の煙が窓から空へと昇ってゆく。青空にたゆたう紫煙を見送りながら、また一服煙をくゆらす。
暑い日だ。風がないが湿気はある。そんな最悪な一日。
灰皿代わりの珈琲の缶に煙草を押し付けると、日焼けした畳の上に大の字となる。
「『あれから幾十年!』」
ふと思い出すフレーズ。
「『この瑞島は荒れるにまかせ』『朽ち果てヽ』『くち果てヽいた』」
――『この島はもう再びよみがえることはない』。
有名な詩だ。瑞島――軍艦島のどこかに書かれた落書きだ。
この詩のように、打ち棄てられた廃墟のように、静かに死んでいくようだ。少しずつ身体が朽ち果てていくような気分。足先から爪切りで精神が切り刻まれていく。バラバラになった心が煙となって空に上がって行く。
――いや、煙に為れればどれほど気分が楽になることだろうか。私は寝転がったまま天井を見つめる。小一時間ほどソレを見つめていただろうか。もしかしたら一分ほどだったかもしれない。時間の感覚が狂う。ぐるぐると視界がぼやける。頭が痛くて、焦燥感と緊迫感が綯い交ぜになって神経をチリチリと焦がす。
何をやっても上手くいかないのだ。やることなすこと全てが失敗に終わる。何一つ成功せずに、ただ時間だけは無為に過ぎていく。それが堪らなくなるのだ。
天井から窓、そしてその窓から空へと視線を移して行く。すると、竜のように煙が一筋、空に舞い上がっている。
――何、この苦痛からも直に解放される。
「やぁ、死神君。迎えに来たのかい?」