桃色センチメンタル
部屋のベットに腰掛け、枕を抱いて色々な事を考えた。クッションを抱くと落ち着く。何かを腕の中に入れて安心したかったのだと思う。縫いぐるみを抱く小さな女の子の気持ちが理解できた。
顔を埋め、小さな唸り声を上げる。少し冷たい二階の空気になんだか心細くなり、クッションを抱いたまま後ろに倒れ、あおむけに転がった。白い天井が目に入り、洗ったばかりのシーツは柔軟剤の匂いで包まれていた。
杉山泰成――。そうつぶやいてみる。眼を閉じると彼の顔や背丈、背中のぬくもりや手の大きさが鮮明に浮かんで来た。彼が音を発するたびに、美しい言葉が後をついて、あたしの耳に伝わっていく。その行為が繊細すぎて、綺麗すぎて、いったい、どれだけ感動したことだろうか。計り知れないとあたしは思う。彼の力は凄く大きくて、温かい。
「好き……」
だが幼いあたしの唇からはその音しか発する事が出来なかった。胸に注がれる液体のように感じる何か。それが愛か否かは全く見当もつかない。あたしがこの言葉だけしか奏でられないということは、それだけの器しか彼を愛することが出来ていないということなのであろうか。何だか哀しくなって、再び起き上がった。
彼はあたしの何処が好きなのだろう。ふと思い、考えてみる。だが、それを彼に訊くことはかなり困難だ。受け取り方を間違えたら勘違いをしてしまうだろう。あたしと泰成の関係はまだ始まったばかりだ。堪らない心を抱えながら、パジャマのフードをかぶる。
「なんか喉乾いた」
喉が渇き、部屋の電気を点けたまま、飲み物を飲むため一階へ降りた。まだ明るくテレビの音が漏れる母と父の部屋を通りすぎて、あたしはキッチンへ向かった。
キッチンの灯りを付ける。少し高い冷蔵庫を背伸びして開けた。マグネット同士が離れるような音がして、中のレモン色の光を浴びせられる。つんと漬物の匂いが漂っていた。あたしは顔をしかめ、果汁百パーセントのオレンジジュースを取り出す。
紙パックの大きなオレンジジュースには、可愛いキャラクターがプリントされている。たくさん集めてお祖母ちゃんに持っていこう。おそらく、椅子か何かを作ってくれるはずだ。あたしはぼんやりとそう思って、光を放つ冷蔵庫を閉めた。
机で、お気に入りのグラスにオレンジジュースを注ぐ。透明のそのグラスは、母が時たま飲んでいるワインのグラスに似ていた。よく弟と、ワイン遊びをしたっけ。あたしは八分目くらいオレンジジュースを注ぎ、六人掛けのテーブルの右端に座った。
「おいしい」
ひとりで、しかも深夜に飲むオレンジジュースは格別だった。酸味と甘味がバランス良く舌の上で踊る。喉元に流れるときには、オレンジは果実自体の甘味の跡を残して行ってくれる。オレンジと同じく酸味と甘味は弾けるように躍るが、跡をほろ苦くして帰っていくグレープフルーツジュースとは全くと言っていいほどに、気品が違う。
泰成はどこに住んでいるのだろう。それすらも解らない。あたしは彼を解っていそうで、解っていない。思えば、誕生日も、血液型も、趣味も、何一つ、知らないのである。そう、何も――――。
あたしは手で顔を覆った。付き合うという行為が、こんなに苦しいことだとは思わなかった。どうしてこんなにも、あたしが辛い思いをしなければならないのだろう。幸せすぎて、辛い。女の子たちがうっとりとした表情で言っている意味は、きっとこのことだったのであろう。いや、だが彼女たちには彼氏という存在がいない。片想いでもこの違和感は感じられるのだろうか。そう考えると、恋愛はなんて難しいのだ。あたしは溜息をついた。
女の子というものは、理不尽だ。大好きな男の子の為に、いろいろな手を尽くさなくてはならない。女の子特有の思い。それはあたしの心をきゅんと窄ませた。
「桃ちゃん」
ふいにドアから声がして、我に返る。そこには青いストライプのパジャマを着た優一がいた。彼はあたしの三つ年上の従兄である。現在は中学二年生で、受験の折り返し地点の時期にあるが、本人は勉学が恐ろしく身についているため、勉強をする気配は一切ない。今までのバレー部のキャプテンを引退し、今はあたしや優一の二つ年下の弟の勉強を見てくれてもいる。
「ゆーちゃん。来てたんだ」
優一はあたしのオレンジジュースを見て、おいしそうだなと呟き、目の前の席に座った。急いで彼の分のグラスをだし、オレンジジュースを注いであげる。日頃の感謝だと言い、彼のグラスに氷も入れてあげた。「ありがとう」彼は大きい手をひらひらとさせて、お礼を言った。あたしは照れくさくなってそっぽを向いた。
「ゆーちゃん、何でここに?」
「桃ちゃんがいたからでしょ」
眉を可笑しそうに垂れさせて笑う優一の姿に、あたしは俯いた。
「なんかあったんだね、お前」
「うん」
「恋愛?」
ずばりとあてた優一の言葉に、あたしは立ち上がって身振り手振りをし、誤魔化した。違う、そんな人いない。だが優一はそうなんだねと納得し、流し目であたしを見詰め、にやにやとして笑った。恥ずかしくなって掌を頬にくっつける。熱かった。堪忍をしなければならないと脳内が命令する。あたしは俯いて赤くなったまま、頷いた。
「ああーなんだ。桃ちゃんにもそんな時期が」
「なんだべか、それ」
のんびりとした言葉に、あたしは頬を膨らませて優一を睨んだ。優一は笑ったまま、両手を上げ、拳銃を突き付けられたかのようなお手上げ、のポーズを取って、目を閉じた。
「でも勉強じゃないし、ひとりで解決できるね?」
優一のそんな声にあたしは黙る。ひとりで。それは確かに可能だけれど、これから、どうやって接していけばいいのかわからない。泰成にも、友達にも。そして、これからの心細い夜をどういう方法で過ごせば良いのかも、解っていない。結局、恋愛すらも何も知らないし、解らない。それは自分で考えることだよ。優一はそう言って、机の上にコンビニ袋を置いた。
「じゃあ、今日は泊まってくね。おやすみ桃ちゃん」
「え?……あ……」
お休みの挨拶を返す前に、彼は奥の寝室へ入って見えなくなってしまった。あたしは肩を窄め、コンビニの袋を開ける。
「これ……!!」
袋の中には、レモン風味の炭酸水と、種を抜いてある干し梅が入っていた。それは、どちらも、あたしが好んで食べる好物であった。
「ゆーちゃん」
涙が伝いそうになるのを我慢し、袋ごと抱きしめる。半分ほどまで飲んだオレンジに炭酸水を注いで、オレンジソーダを作った。干し梅は、その飲み物と合わせてちょうどよい個数になっていた。まるでおつまみみたい。そう思ったが、あたしは手を止まらせることなく、食べ続けた。涙を止めるための術かもしれない。あるいは、その涙を否定するための術なのかもしれない。
目の前に置かれた、飲み干された従兄のオレンジジュースを見て、ぼんやりと思う。あたしはこれから、彼の飲んだグラスも洗わなければならないのだ。