桃色センチメンタル
初めて男性との特別な付き合いを始めた歳は、小学五年生の秋だった。塾に行き始めてから、他の小学校の友人とのふれあいが増えたことがきっかけであった。
その彼――杉山泰成は陽気な少年であった。少年野球で活躍をしているらしく、友人もたくさんいる。そんな男の子であった。毎日機嫌を悪くしていて、やや近づきがたいあたしの不愛想な顔にも目をむけず、彼はしつこく話を掛けてくれた。おめでたい奴。あたしは彼のしつこさが嫌いで仕方がなかった。小学校にもしつこい人というのは数名存在したけれど、授業中にここまで話しかけてくる人は見たことがなかった。
「……杉山くんしつこいよ。私に話しかけないでよ」
ある塾の日、彼があたしの長い髪を触ってきたので、とうとう我慢ができなくなり大声で怒鳴った。瞬時の彼はあたしの変わりように驚いていた。あたしは学校でも塾でもおとなしい存在である。絵を描いて、ピアノを弾いて、本を読んで、友人と話す。そういうスタイルが日課であったし、そもそも男という性別の者と楽しく会話をするなど、少数の者にしか振舞っていなかった。
すると彼はそんなあたしの手をいきなり握ってきた。背の高い彼の手は大きくて、ごつごつとしていた。男の人の手は皆、父の手の感触と同じなのかもしれない。あたしはそう思いついて、彼の顔を見上げた。彼はあたしと目が合うと、にこりと笑った。軽そう。一瞬そう思ったが、彼の手のぬくもりによりそんな気持ちは消えていった。
「杉山くんって」
あたしは彼に手を握られたまま、ぼんやりと訊いてみた。塾の教室の中は初旬の秋でまだ暑かった。彼は運動会の練習の後に塾へ来たのだろう土で薄汚れた体操着を着ていた。あたしは切なくなる。彼からかすかに、土の匂いがする。どうして、彼にはこの香りが酷く似合うのだろう。スポーツ刈りの頭が、強そうな顔立ちとのバランスを良くさせていた。「うん」彼は頷く。
「どうして私にしつこくするの」
彼は手を離した。あたしは何故か俯いて項垂れたように肩を落とした。おかしい。杉山の事は好きではなかったはずだ。いや、むしろ嫌いだった。しつこくてお調子者で授業中はうるさい。そんな彼にうんざりしていたはずだ。まさか、先ほどの手の大きさで気持ちが変わってしまったのだろうか。体は怯えた。人を好きになることとは、案外容易いのだろうか。
あたしは少し悔しくなった。あたしの男子嫌いを、一番苦手なタイプの男の子が克服してしまうなんて。人とは、簡単だ。異性に恋に落ちる経路は手の大きさでも決まるのだ。あたしはぼんやりとそう思い、彼の前で立ち尽くしていた。
彼はううん、と困ったように笑った。そしてあたしを見て、可愛くて堪らないといったように離した手を唇にあてた。あたしは理解した。この男はあたしのことが好きなのだ。あたしと付き合いたいのだ。何だか下心が見えてしまったようで、目を伏せた。妙な罪悪感が心に残った。
「わかるだろ……みんなそう言ってるし」
そう呟いた杉山の顔からは笑顔が消えていた。ただ、そっぽをむいて頬を赤くしていた。あたしは苛々した。焦らす人だな、男のくせに。男女差別のような用語があたしの頭の中を飛び舞った。
「うーん、わかんないなあ」
あたしは意地悪くそう言って彼を困らせた。すると、ようやく彼は決心したようにあたしと目を合わせると、淡々と言った。それは言葉というより音だった。音が聴こえて、それから遅れて言葉が頭に入ってきた感じである。土まみれでも、スポーツ刈りでも、その時の彼は恰好よく見えた。苛々していた感情が消え、しばらく彼に見惚れた。あたしは一瞬にして彼――杉山泰成に心を奪われた。
「好きです。俺と付き合ってください」
あたしは本能的に笑みを零した。心が満たされたような、今までで感じたことのない感覚に襲われた。それは海の波に浚われている例えにふさわしいかもしれない。あたしはその場で自分の気持ちを伝えた。
「お願いします」