残り菊~小紅(おこう)と碧天~
その一言で、太吉は面を上げた。意を決したように話し始める。
「若旦那さまにぶたれました」
「若旦那さまに?」
そこで、初めてその理由に思い至った。太吉は準平に小紅が連れ去られるところを見ていた。機転を利かせた太吉が武平に知らせに走ってくれたからこそ、小紅は陵辱されずに済んだ。
この身が無事だったのは太吉のお陰であった。しかし、準平にとってみれば憎らしい邪魔者でしかない。が、準平は確かに太吉の姿を見ていなかったはずだが―。
「おいらが番頭さんに話しているのを丁稚仲?が見ていたんです。多分、その子が若旦那さまに」
後は言わなかったが、告げ口したということだろう。どうやら相当に聡い子のようである。小紅が考えていることも一瞬で見抜き、その応えを口にした。
「ありがとう。あなたが番頭さんに知らせてくれたから、旦那さまが来て下さったのね」
小紅は懐から懐紙に包んだ金平糖をそっと取り出した。
「これはほんのお礼」
「お嬢さま、おいら、こんなものは頂けません」
黒いつぶらな瞳で訴える太吉に、小紅は微笑みかけた。
「もし誰かに何か言われたら、私が無理に押しつけたのだと言って。ね?」
「は、はい」
小紅が見つめると、太吉は紅くなり頷いた。
「奉公は辛いだろうけど、頑張って。あなたなら、きっと手代どころか番頭にもなれるわ」
この聡明さであれば、自分で店を興すことも不可能ではないだろう。しかし、それは口にせずに小紅は利発そうな太吉の頭をそっと撫でた。
その時。太吉が思いきったように言った。
「お嬢さま、おいらたち奉公人は皆、お嬢さまは若旦那さまではなく旦那さまと結婚して、この難波屋の内儀になって頂きたいと思っています」
到底、幼い子どもの口から出る科白とは思えず、小紅は眼を見開く。
「お嬢さまはいつも明るくて誰にでもお優しいって、皆、話してます。だから、お嬢さまには若旦那さまよりも旦那さまの方がふさわしいと思って」
更に言い淀んだ末、太吉は信じられないことを口にした。
「それに若旦那さまは旦那さまの本当のお子ではないと皆が話してますし」
「太吉さん、滅多なことを言うものではないことよ。商家の奉公人というものは、奉公先のお店(たな)についての内情は軽々しく他人に喋ってはいけないの。太吉さんは利口だから、私の言うことが判るでしょ」
「判りました、申し訳ありません」
太吉はペコリと頭を下げた。
「判ったら良いの」
もう一度太吉の頭を撫でると、太吉は言った。
「ですが、お嬢さま。旦那さまはお嬢さまをよそのお方ではなく、難波屋のご家族の一員だと思えといつもおっしゃっています。それで、つい余計なことを申し上げてしまいました」
「そうなの。判ったわ」
本当なら、これも口答えだとたしなめるべきであったろうが、太吉は太吉なりに良いと思って口にしたことだ。流石にそこまでは太吉に言わなかった。
太吉は金平糖を嬉しげに懐にしまうと、もう一度、お辞儀をして跳ねるように駆けていく。利発で大人びているようでも、その後ろ姿は紛れもなく幼い子どもだった。
晩になった。小紅はいつものようにお琴の介添えで夕餉を取る。幾ら小春日和とはいえ、短い冬の陽が落ちてからは急激に冷え込んでくる。既に庭に面した障子戸はきっちりと締められていた。
今頃は薄墨を溶き流したような宵闇に残菊がひっそりと浮かび上がっているだろう。小紅はそんな花の姿を思い浮かべながら、箸を動かしていた。
「お琴さん」
唐突に呼ばれ、お琴は眼をまたたかせた。
「ご飯、お代わりをよそいましょうか?」
「いいえ。それは良いの」
小紅は礼を言ってから、お琴の方へ膝をいざり進めた。
「ところで、少し訊きたいことがあるんだけど」
「はい、私でお応えできることであれば何なりと」
小声で話し出した小紅にならうように、お琴も声を低めた。いささかお喋り好きな嫌いはあるが、けして愚かな女ではない。
「こちらの若旦那さまが旦那さまの実のお子ではないという噂があるそうね?」
お琴は思いもよらない人から思いもよらない話を聞いたというように小さな眼を丸くした。
「ええ、それは確かにそういう話がないわけではありませんが」
いつも歯切れの良い物言いをする彼女にしては極めて珍しい曖昧な言い方は逆に、かえって何かあると感じさせるには十分だ。
「本当の話なのかしら」
いっそう声の調子を落として囁き声になると、お琴は小さく頷いた。
「真でございますよ。亡くなられたお内儀さんは旦那さまに嫁がれる前、大和屋という小さな絵双紙問屋に嫁がれておりましてね。そこで赤ちゃんをお生みなすったんですが、そちらの旦那さまが早くにお亡くなりになったんです。お子さまがまだ生後半年にもならない頃のことだったとお聞きしました」
「それでは、準平さんはお内儀さんの連れ子ということになるのね」
「さようでございます。何でもこの難波屋の先代のご主人さまの姪御に当たられるとかで、先代の旦那さまがまだ若い身空で後家になったお内儀さんを不憫がってお引き取りになったといいます。私は十六でこちらにご奉公に上がりましたものですから、先代さまももちろん存じ上げておりますけど、二十歳で亭主に嫁ぎましてからは次々と子どもができて、しばらくはご奉公をお休みさせて頂いていたんです。そんな案配で、お内儀さんがこちらにお嫁にいらした頃は、丁度、難波屋にはいなくて、当時の詳しい経緯は知らないんですよ」
お琴が再び奉公を始めたのは、二年違いで生まれた四人の子どもの中、末っ子が十歳になった年だという。当時、既におきわは武平の妻となっており、準平も若旦那として大切に育てられていた。
父仁助はむろん知っていたろうが、そんな余計な話は一切、小紅にしなかった。だから、小紅がそんな昔の複雑なゆくたてを知らなくても当然といえた。
「これはあくまでも私が知る限りの話ですが」
と前置きしてお琴が教えてくれたのは、もう少し詳しい内情であった。
若くして寡婦となったおきさは子を連れて実家に戻った。そんな姪を憐れんで難波屋夫婦は既に身代を譲ると決めて養子にしていた武平に相談を持ちかけた。
もちろん、おきわを嫁に迎えて欲しいという話だ。実子のない難波屋の主人は妹の子を実の娘のように可愛がっていた。もし姪が嫁いできて養子に迎えた武平と一緒になれば、自分の血の繋がった者に後を託せるという欲が出てきたのもあるだろう。
武平は流石に即断はしなかったが、数日後には受け容れたという。もちろん、連れ子も一緒に迎えられた。その時、武平は十七歳、おきわは二十四歳になっていた。武平は十七歳で七つも年上のしかも子持ち女を妻に迎えた。
やがて赤児は準太郎という名前から、難波屋の跡継ぎらしく準平と名を改めた。おきわは権高で主筋の娘であるという立場を殊更ひけらかし、準平を溺愛したが、武平は誰が見ても至らない妻を大切にした。準平も我が子同然に可愛がった。
お琴が膳を下げて出ていった後も、小紅は深い物想いに沈んだ。
十四歳で難波屋の正式な跡取りとなり、十七歳で七つ上の姉さん女房と結婚した叔父。しかも、女には連れ子までいた。
作品名:残り菊~小紅(おこう)と碧天~ 作家名:東 めぐみ