残り菊~小紅(おこう)と碧天~
別に武平が納得してのことだったのだから、悲壮感も何もあったものではないだろう。しかし、武平にはその後、実子はできず、彼は血の繋がらない息子を我が子のように大切に育てた。しかも、その倅は父に恩を感じるどころか、父が汗水垂らして稼いだ金を平気で遊興に費やしている。
その姿は何かを小紅に語りかけてくるようであった。すべてのものをただ受け容れ、己れの運命に逆らうことなく、それでも日々を真摯に生きている。小紅の瞼に、再び薄い闇の中で咲く白い可憐な菊たちの健気な姿が甦った。
予期せぬ事実を知ってから数日後の夜である。小紅は縫い上げた袢纏を風呂敷に包み、叔父の居間を訪ねた。小紅が廊下からそっと呼ぶと、すぐに返事があった。
「こんな時間にごめんなさい。ご迷惑なら、明日の朝、また来ます」
小紅が障子戸を細く開けて覗き込む。武平は机に向かって算盤を弾いているようだ。店の帳簿の確認でもしているのだろうか。小紅は慌てて言った。
「やっぱり、明日にします」
「いや、良いんだ」
「でも」
逡巡する小紅に、武平はいつになく強い声で言った。
「良いから」
言った後で、照れたように笑う。
武平の笑顔は魅力的だ。春の陽溜まりのように、何もかもを包み込むような笑顔が子どもの頃から大好きだった。
―私、叔父さまが大好き。
その時、小紅はふと思った。
私、今、何と思ったの? 確か、叔父さまを大好きだと―?
叔父を好きだという気持ちはまだ物心つくかつかない頃からのもので、今も変わりはしない、今になって、それをどうこう考える方がおかしい。
しかし、叔父の言葉でその疑問もすぐにうやむやになった。
「大きな声をして悪かった。でも、私の方が小紅ちゃんの顔を見たいと思ってね」
何故か、その言葉に頬が熱くなる。今日の私は変だ。いつもと何かが違う。
「昨日、今日とずっと小紅ちゃんの顔を見ていない。何か心に小さな穴が空いたようで、今一つ元気が出なくてね」
確かに武平は昨夜は同業者ばかりが集まる寄り合いがあって遅かったし、今日も商用とかで一日中、姿を見なかった。
寄り合いは大抵、深川辺りの料亭で行われるが、その後は気の合う者同士が吉原へ繰り出すと相場が決まっている。父もまだ真面目に商いをしている頃は寄り合いの後、吉原の遊廓に登楼していたようであった。
文机を離れてこちらにやってきた武平と向かい合うと、叔父の顔色がいつになく悪いのがよく判った。
やはり、疲れているだろうのに、こんな時間に来るのではなかった。袢纏は一昨日、仕上がった。一刻も早く渡したくて気が逸ったのだが、せめてあと一日は待つべきであった。
後悔がちらりと胸を掠める。
「叔父さま、顔色が悪いわ」
小紅が言うと、武平は力ない笑みを浮かべた。
「先刻も言ったように、丸二日、小紅ちゃんの顔を見てないからだろう」
「叔父さまったら、こんなときに冗談は止めて」
小紅が咎めるように言うのに、武平は珍しく声を上げて笑った。
「小紅ちゃんは心配性だな。大丈夫だよ。疲れているから、昨日は吉原にも行かずに早めに切り上げてきたしね」
その言葉に何故か、妙な焦りを憶えて小紅はつい言ってしまった。
「叔父さまは吉原なんかに行くの?」
「そりゃア、もちろん私も男だから、遊廓には行くことはある。とはいっても、大抵は寄り合いの後の単なる付き合いだが」
「ねえ、男のひとって、皆、そういう場所が好きなのかしら」
父もまた岡場所の女に入れあげて出奔した。男という生きものはおしなべて皆、色欲に突き動かされるものなのだろうか。その衝動は抑えきれないものなのか。
小紅は口にした瞬間、自分は何というはしたない質問をしてしまったのかと消え去りたいほど恥ずかしくなった。間違っても、未婚の娘がまだ若いといえる歳の男にする質問ではない。たとえ相手が血の繋がった父代わりの叔父とはいえ、だ。
が、武平は小紅の質問を面白がったりもせず、もちろん、軽蔑したような顔もしなかった。
「小紅ちゃんがそんな質問をするとは意外だ。だが、お前ももう十五で、嫁入り話まで出てる。いつまでも子どものままだと思っていたが、いつのまにか立派な大人になったんだな」
武平は昔を懐かしむような口調でしみじみと言う。
「お前が赤ン坊の頃は襁褓もかえたし、よちよち歩きを始めた頃は準平とお前を連れて随明寺の大市にも行った。そんな頃から知ってる娘がもう一人前になった。早ぇもんだな」
準平のことを話す時、武平は間違いなく父親の顔になる。だからこそ、小紅も準平が叔父の実の子ではないと―、実は血の繋がった従弟ではないと気づかなかった。
だが、当の倅の方はどうなのか? 数日前、武平が物置で心臓の軽い発作を起こしたときも準平は平然としていて、別段心配そうな様子も見せなかった。
「叔父さまはどうして、そんなに優しいの?」
「小紅ちゃん―」
「私、聞いてしまったの。準平さんが叔父さまの実の息子ではなく、お内儀さんの連れ子だって」
言うべきではないと判っていた。叔父なりに真剣に考え決断したことなのに、部外者の自分がとやかく言う事柄ではない。だが、何故か言わずにいられなかった。
実の子でもないのに、武平は何故、こんなにも長い間、準平に変わらない情愛を注げられたのか。更に、そんな彼を父として敬愛し地道に商いを憶えようとするどころか、父の稼いだ金を湯水のように使って遊ぶ馬鹿息子をそれでも愛せるのか?
「今夜の小紅ちゃんは色々と難しい質問をするね」
武平は優しいいつもの笑みを見せた。
「小紅ちゃん、人の縁(えにし)というものは複雑に入り組んでいるように見えて、実は意外に簡単なものなんだよ」
「それは、どういう意味?」
小首を傾げる小紅に、武平は解り易く説明してくれる。
「私と準平の縁もまた予め決められたものだった。私はそんな風に考えている」
「父と息子になる縁っていうこと?」
「そうだな、てっとり早くいえば、そういうことになる。この世には色んな人の縁と縁が複雑に絡まり合っているようだが、実は、ある人から辿っていけば、その縁の糸はたった一人の誰かと一本だけで繋がっている。現世(うつしよ)に父と子はそれぞれ一人きり、夫婦もしかりだ。だから、意外に簡単だし、予め決められたものだともいえると言ったんだよ」
「何となく判るわ、叔父さまのお話」
「そうか、小紅ちゃんは幼い頃から利発な子だからな。だから、私は予め御仏がお決めになった縁を大切にしたい。小紅ちゃんと私が叔父と姪であるという縁も含めてね」
武平は更に笑みを濃くした。
「それから、その前の質問だが、あれもやはり、私の応えは縁を大切にしたいからとしか言えないな」
「―?」
作品名:残り菊~小紅(おこう)と碧天~ 作家名:東 めぐみ