残り菊~小紅(おこう)と碧天~
武平の握りしめた両の拳が戦慄いている。
「だけど、親父。こいつはもう、俺のものも同然だろ。何なら、祝言を早めても―」
「馬鹿者ッ」
少しも悪びれる風もなく平然と言う倅に、武平は更に拳を振り上げた。
「小紅はまだすべてを失って日が浅いんだぞ? お前はよくそんなことが言えるな」
武平が口に押し込まれていた布を取ってくれたため、漸く小紅は喋れるようになった。
「叔父さま、どうか気を鎮めて下さい。お願いですから」
小紅は武平に懸命に言った。準平が殴られるのは構いはしないけれど、これ以上気を立てては、武平の身体に障ると思ったのだ。心ノ臓には癇を立てるのがいちばん良くないというではないか。
小紅が取り縋るので、武平は何とか思いとどまったようであった。
「小紅ちゃん、こいつはお前に庇われるほどの価値もねえ男だよ」
武平は呟き、悄然と肩を落とした。
「本当に済まないね。こんなろくでもない男に育てちまったのも全部、親の私の責任だ。一人しかいない倅だと甘やかして大切に育てすぎた。今、その付けを払わされてるんだ」
どうやら武平は大きな誤解をしているようである。小紅は違うと叫びたかった。自分が止めたのは何も準平のためなんかではない。腹を立てることが武平の身体に障ってはいけないと思ったからなのに。
しかし、その誤解を今になって解くのも何やら妙な気がして、小紅は本音を言うに言えなかった。
「行こう」
武平は小紅に手を貸して立たせると、痛ましげな表情で首を振った。
小紅の帯はすべて解かれ、腰紐だけになっており、着物の前は乱れている。はっきりと乱暴された形跡を残していた。
「何て格好だ。私は本当に馬鹿な倅を―」
言いかけた武平が胸を押さえた。
「ツ」
明らかに苦悶の表情を浮かべる武平に、小紅は慌てて駆け寄る。
「叔父さま、大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫だ。ちょっと胃の腑が痛んだだけだから、心配しなくて良い」
武平はしばらく胸を押さえてその場に立ち尽くしていたが、やがて、小紅を安心させるかのように優しい笑みを浮かべた。
「さあ、あんな馬鹿は放っておいて、私たちは先に行こう」
準平は実の父親が眼の前で明らかに体調に異変を感じているというのに、知らん顔だ。まるで動揺している気配もない。憎々しげにこちらを睨(ね)めつけていた。
小紅は武平に肩を抱かれるようにして、その場を後にした。少し歩いたところで、武平が心配そうに訊いた。
「本当に大事ないのか? 先から小紅ちゃん、震えてるぞ?」
「―」
小紅は潤んだ瞳で武平を見上げた。本当は大丈夫なんかじゃない。いきなり人気のない場所に連れ込まれ、犯されそうになったのだ。平気なはずはなかった。
「叔父さま、私」
涙を浮かべた小紅の瞳を見て、武平は胸をつかれたようであった。
「済まないね、本当に済まない。お前にもしものことがあれば、私は兄貴に申し訳が立たないよ」
武平は幾度も詫びた。武平は兄の仁助に言わば、煮え湯を呑まされたはずである。その借金を肩代わりし、残された娘を引き取った。それだけでもはや、仁助に対して申し訳ないも何もないはずなのに、律儀に小紅を守ろうとしてくれている。
「叔父さま」
小紅は自然に武平の胸に飛び込んでいき、武平もまた小紅をその腕に包み込んでいた。
「怖かったんだな。もう、大丈夫だ。これからは私がもっと眼を光らせているから」
小紅はコクコクと何度も頷いた。武平の腕の中で小紅は泣くだけ泣いた。武平は小紅が泣き止むまで辛抱強く待ち続けてくれる。
やがて小紅がすっかり泣き止むと、武平はいかにも彼らしい笑顔で言った。
「少しは気が晴れたかい?」
「はい」
小紅は少し紅くなって頷いた。十五にもなって、まるで五歳の子どものように泣くだなんて恥ずかしい。
「小紅ちゃんはここのところ、色々なことがありすぎたんだよ。今は心が乱れていて当たり前さ。その中、少しずつ落ち着いて、ここでの暮らしにも慣れてくる。倅のことは心配しなくて良い。今後は二度とこんなことがないように小紅ちゃんのことは私が守る」
―小紅ちゃんのことは私が守る。
その一言が何故かとても嬉しくて。小紅は胸に小さな灯りがともったような気がした。その小さな灯りは不思議なことに、父の出奔以来、小紅の中に降り積もり小さな心を凍らせていた哀しみを溶かし、ほんのりと温かくしてくれたのだった。
だが、抱き合う二人を準平が樹の陰からそっと盗み見ていたことを武平も小紅も知らなかった。
「畜生、あいつは俺の女だ。親父に横から盗られて堪るものか」
呟く準平の眼はどこまでも昏く、底なしの闇へと続いているかのようであった。
その日の午後、小紅は自室の障子戸を開け放していた。濡れ縁の向こうには庭がひろがっている。師走とて秋の花ももうあらかたは散ってしまっているが、片隅で数本の残菊が懸命に身を寄せ合って咲いているのがいじらしくも美しかった。冬の始まりに懸命に咲く花は儚いというよりは、むしろ力強い印象を与える。
その日は本当に春を思わせる陽気で、小紅は沓脱(くつぬぎ)石にきちんと揃えて置いてある草履を履いた。紅い鼻緒の愛らしい草履である。
数歩あるくと、白い小菊のひと群れの側にしゃがみ込んだ。
「お前たちはお利口さんね。こんな季節でも、まだまだ頑張って咲いているんだもの」
だから、私も頑張らなきゃね。
心の中で呟く。それは菊にというよりは、自分に言い聞かせる言葉であったかもしれない。今朝の出来事を思い出すと、また涙が溢れそうになる。
ここにいる限り、あの準平の執拗な眼から逃れられはしない。いっそのこと、叔父に話して出ていこうとも考えるけれど、病気だという叔父の側を離れることなどできようはずもない。
激して準平を殴りつけた直後、武平は心ノ臓辺りを押さえて苦悶の表情を浮かべていた。あれは明らかに心臓発作を起こしたに違いなかった。軽いから、あの程度で済んだのだ。
叔父が病というのはやはり真実だったのだ。あんな状態の叔父を置いて、最早、ここを出ることは考えられない。
大丈夫、大丈夫と自分に言い聞かせた。準平については武平も気を付けてくれると言っていたし、何より自分で自分の身を守れば良いだけの話だ。あの男と二人きりになったりしなければ良い。
だが、その反面、たとえ、どれだけ気を付けたとしても、今日のように力づくで押し倒されたら、自分には逃れるすべはない。そう思えば、怖くて身体がまた震えそうになる。
そのときだった。
少し向こうで幼い丁稚が庭を掃いているのを認め、小紅は静かに近寄った。
「あの」
愕かせないように声をかけたつもりだったが、丁稚は飛び上がった。
「愕かせてしまって、ごめんなさいね」
「はい、いいえ」
正直に応えてはいけないと思ったのか。妙な応えを返した丁稚はまだ十歳にもならないだろう。小さな身体を折り曲げるようにして、恐縮している。
「お名前は?」
「太吉(たきち)と申します」
そこで、太吉の右目の回りに青黒いアザがあるのに気づく。
「そのアザはどうしたの?」
「その」
言いにくいことなのか、もじもじしているので、小紅は優しく言った。
「誰にも言わないから、教えて」
作品名:残り菊~小紅(おこう)と碧天~ 作家名:東 めぐみ