残り菊~小紅(おこう)と碧天~
小紅が縫い始めたのは綿入れの袢纏であった。心ノ臓の病には寒さは良くない。なので、叔父に着て貰おうと温かい冬用の袢纏を仕立てることにしたのである。
こんなことで恩が返せるとは思わないけれど、少しでも寒い冬を温かく快適に過ごして欲しいと思い、ひと針ひと針、心をこめて縫い上げていった。
だが、一日中縫い物をしていても、肩や眼が疲れるだけで、長時間となると、かえって能率が落ちてしまう。そこで、小紅はついに意を決して部屋を出た。紅絹(もみ)の紐でたすき掛けをし、上等の着物の裾を端折(はしょ)った。その勇ましい姿で自室の前の廊下の雑巾掛けを始めた。
今日は冬とはいえ温かな日和なので、少し動けば、うっすらと汗をかくほどだ。しかし、久しぶりに身体を存分に使うのは心地よい。もちろん、仕上がった袢纏を見て歓ぶだろう叔父の顔を想像しながら仕立物をするのも楽しいけれど。
ほんの少しだけと休憩しているまさにその時、事件は起こったのだった。背後からいきなり尻を撫で上げられ、小紅は悲鳴を上げた。
「―っ」
思わず振り向くと、眼前には最も逢いたくない男がいた。
「何をするの?」
思わず咎めるような口調になったのはこの場合、仕方ない。
「良い眼の保養をさせて貰ったぜ。小紅ちゃん」
わざと幼い子に言うように名前を呼ばれ、小紅はムッとした。この男は自分を端から馬鹿にしている。自分だって、まだ元服したばかりの嘴の黄色いひよっこの癖に。
それが難波屋武平の倅、難波屋の跡取りというだけで大きな顔をして、この若さで吉原遊廓に出入りし、大店の旦那衆のように遊興に耽るというのだから呆れて物も言えない。こんな器の小さな男が自分の未来の良人となるのかと思うと、つくづく情けなかった。
「どういう意味―」
言いかけて、小紅はハッとした。もしかして、後ろから見られていた?
蒼褪める小紅とは裏腹に、準平はさも面白そうに嫌らしげな笑いを浮かべている。
「幾ら人眼がないと言っても、少し無防備すぎやしないか? 俺以外の男がお前の身体を眺めるのは俺ァ、我慢がならねぇな」
「み、見てたの!?」
悲鳴のような声に、準平は下卑た笑みで応えた。
「そーんなに裾を絡げちまったら、奥の奥まで見えるぞ? 祝言前に、お前の大切な場所を見られるとはつくづく運が良い男だな、俺も」
ぺらぺらとよく回る舌を切りとってやりたい。眼の前の男に憎しみすら憶えながら、小紅は唇を噛みしめた。
「なあ、一度で良いから、味見させちゃくれねえか? 先刻見たばかりのお前の大切な場所に俺のを入れてやるぜ? 俺なら、この世の極楽を何度でもお前に味あわせてやれる。どうだ、今夜、いや、今からでも良い。家の中は親父の眼が光ってるから、どこか外で待ち合わせよう。出合い茶屋ででも―」
言いかけた男の頬が鳴った。
恐らく親にでさえ叩かれたことのないであろう甘ったれ男は茫然として眼を見開いていた。
やがて、準平が怒りのあまり朱に染まった顔で拳を振り上げた。
「この―」
―殴りたければ、殴れば良い。
小紅はキッと準平をにらみ付けた。
ところが、何を思ったか、準平は小紅の腕を掴むと、廊下を歩き出した。
「何をするのよっ」
だが、準平はいきなり小紅の膝裏を掬い抱き上げた。口には布が押し込まれ、小紅の悲鳴はくぐもった低い呻きにしかならなくなる。
彼は庭に面した障子戸を開き、そのまま下に降りた。草履を突っかけると、大股で歩き出す。途中で庭の落ち葉を掃いていた丁稚がちらちらとこちらを窺っているのが遠目に見えたが、小紅を運ぶの夢中になっているらしい準平にはまったく眼に入っていないようであった。
どこに行くのかと思っていたら、随分と奥まった場所にまで来た。
ここは―。
五年前の記憶が俄に巻き戻される。五年前も朽ち果てそうだった物置は更に風雨に晒され、見るも無惨な姿と変わりはてている。屋根などは今にも崩れ落ちてきそうだ。
「ここを憶えているか?」
準平は朽ちかけた物置に入ると、無造作にまるで荷物を放るように、小紅の身体を床に投げ出した。
―い、痛い。
その刹那、腰をしたたか打ちつけて、激痛が走った。
「十年も待って、やっと手に入れた女だ。できれば上等とはゆかずとも、ちゃんとした布団の上で抱いてやろうと思っていたが、そんな気も失せた。お前のような生意気な女にはここがお似合いだ。お前はここで俺に抱かれて女になる。今日こそ観念するんだな」
準平は五年前と違い、鍵を掛けなかった。いや、最早、鍵などはあって無きがごとしなのだろう。あのときですら、鍵は既にさび付いて、殆ど使い物にならないような有様だったのだから。
準平の手が伸び、着物の袷が乱暴にひらかれた。手が襟許から差し入れられ、乱暴に胸のふくらみを包み込まれる。
「ううっ」
口に詰め物をされているので、声も出せない。小紅は渾身の力を出して暴れた。
こんなところで準平の思い通りにされてしまうなんて、絶対にいやだった。
「思ったとおりだ。柔らかくて大きいな。色や形はどんなのか、見せて貰おうじゃねえか、なあ?」
力任せらに乳房を掴まれ、揉み込まれながら、酒臭い息を吹きかけられた。
―いやっ、誰か。助けて。
小紅の眼には涙が溢れた。視界が涙の幕で曇って、何も見えなくなってしまう。
突如として頬に鋭い痛みを感じた。暴れる小紅に焦れたのか、準平に打たれたのだ。まるで火球が炸裂したかのような痛みに、更に涙が溢れた。
「これでおあいこだな」
準平は囁きながら、小紅の両脚の間に身体を割り込ませ、自らの膝で小紅の動きを封じた。
するすると帯が解かれる。手荒く帯が解かれる音が荒れ果てた場所には不似合いな酷く淫猥な音に聞こえた。
もう、駄目だ。自分はとうとう卑劣な男に陵辱されてしまう。同じ十五歳とはいえ、準平の体?はもう殆ど完成された大人並みだ。幾ら小紅が抵抗しても勝てるはずがなかった。
あの日と同じだ。小紅の抵抗はあっさりと封じ込められた。違うのは、あの日は何とか自力で逃げ出したけれど、今はそれが叶わないこと。あの頃はほんのわずかでしかなかった力の差は、今や歴然としてしまっている。
―いや、いや。
小紅はそれでも涙を流しながら、抗った。
「往生際の悪い女だな。なあ、どうせ祝言を挙げちまえば、同じことを何度でもやるんだ。今からやったって、同じことだよ」
準平の眼には飢えた獣のような凶暴な光が宿っている。彼がニヤつきながら小紅の着物の袷を更にひらこうとしたまさにその瞬間、大きな怒声が響き渡った。
「何をしている!」
物置の戸が開け放たれ、武平が仁王立ちになっていた。
「まったく、お前は何というヤツだ。恥を知れ、恥を」
?ヒ?とも何とも形容のしがたい悲鳴が準平の口から洩れた。つくづく情けない男である。
武平がつかつかと歩いてきた。―かと思うと、いきなり鉄拳が準平の顎を見舞った。その煽りをまともに喰らい、準平は見事に後方に吹っ飛んだ。
「お前が小紅を運んでゆくのを偶然見ていた者がいたから事なきを得たようなものの、あと少し私が来るのが遅かったら、お前は取り返しのつかないことをしでかしていたんだぞ?」
作品名:残り菊~小紅(おこう)と碧天~ 作家名:東 めぐみ