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残り菊~小紅(おこう)と碧天~

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 小紅はこの時、初めて父を憎いと思った。それでなくても体調を崩している叔父に万が一のことがあれば、それは父のせいだ。父がすべて佐津に騙され、あの女狐に貢いだ金が借金となって残っていたのだ。
 叔父が何故、何の才能も取り柄もないただの小娘にすぎない自分をそこまで頼りにしてくれるのかは判らない。それでも、頼られているからには、できるだけ、その期待に応えたいと思う。
 叔父はそれだけの無理をして借金を肩代わりしてくれたのに、小紅に恩着せがましいことは一つも言わない。強いて言えば、条件として準平と結婚して欲しいと言ったくらいだ。それとて、その後でこうも言った。
―もちろん、お前がいやだと言うのなら、無理強いはしない。お前が準平との結婚を断っても、ここがもうお前の家だというのは変わらないからね。お前はここから難波屋の娘として堂々と嫁いでいったら良い。私もできるだけの支度をさせて貰うよ。
 叔父はどこまでも度量の大きい、男気のある人だった。昨日、準平は?親父に惚れているのか?と言ったが、そういう男女の色恋とは別の意味で、小紅は武平を尊敬していた。武平に惚れているわけではないが、もし将来、誰かに添うのならば、叔父のように男らしい男が良いと漠然と夢見ている。
 小紅がとりとめもない想いに耽っていると、お琴が素っ頓狂な声を上げた。
「あらまあ、私としたことが、とんだ油を売っちまいました」 
 小紅の食事はとうに終わっている。お琴が慌てて箱膳を持ち立ち上がったその時、急ぎすぎたせいか、襟許からひらりと何かかが舞い落ちた。本人は気づいていないらしく、慌てて部屋を出ようとするのに、小紅は背後から声をかけた。
「お琴さん、何か落ちたみたいだけど」
 お琴がくるりと振り向き、小紅の拾い上げたそれを見て、見る間に赤面した。
「まあ、何てことでしょう」
 小紅の手にしたのは一枚の紙切れ―、どう見ても役者の姿絵であった。多色刷りの美麗なもので、一枚がかなり値の張るものだったろう。
「これは役者絵よね?」
 お琴の頬は十代の少女のように紅く染まっている。
「ええ、良い歳をして恥ずかしいったらないんですが、私しゃア、芝居見物が三度のおまんまより好きでしてねぇ。もちろん、私のようなその日暮らしの者には過ぎた贅沢だとは心得てますけど、せめて贔屓役者の姿絵くらいは拝んでも良いかなって、こうして肌身離さず持ってるんですよ」
 小紅は手許の浮世絵をまじまじと見つめる。
「これは―女形(おやま)なのかしら?」
「ええ、ご存じありませんか? 板東碧天(ばんどうへきてん)といって、一部では神か仏のように熱心な崇拝者(ファン)がいる若手女形なんです。実際にはまだしがない大部屋役者にすぎませんけどね。個人的にあまりに熱狂的な贔屓筋がいるもので、こんな風にいっぱしの立て役みたいに錦絵が出回ってるんですよ」
「そうなの」
 大部屋役者なのに、錦絵が出回っているというのも確かに妙な話ではある。それだけ個人的な贔屓筋が多いということなのか。もしかしたら、芝居の才能はあまりないのかもしれない。
 小紅は更にその浮世絵を見つめた。切れ長の眼許はすっとつり上がり、ほのかに眦に紅を差している様が凄く色っぽい。これは花魁(おいらん)のなりをしているが、桜花のような唇、整った鼻筋、棗(なつめ)のような瞳、何一つ取っても文句のない美貌である。
 元々の美貌が豪奢な花魁の打ち掛けや漆黒の髪を飾る数々の笄(こうがい)にいささかも引けを取っていない。まったく男だとは信じられないような、滴るような色香溢れんばかりの佳人ではないか。これだけの美形であれば、個人的に熱心な崇拝者がつくというのも頷ける。
「何だか女としては複雑な心境よね」
 小紅は笑った。
「ひとめ見て男だと言われても、咄嗟には信じられない。私なんかより、よっぽど綺麗だわ」
 と、お琴がとんでもないというように手をぶんぶんと振った。
「まあまあ、何をおっしゃいますやら。若旦那さまはお嬢さまにかなりのご執心のようですが、そのお気持ちだけは無理もないことと私も思ってるんですよ。碧天は確かに美しうございますが、それは所詮、作られ計算され尽くした美貌。ですが、お嬢さまのお美しさは自然に備わったものですもの。人工の花と自然にひらいた花の美しさは所詮、比べものにはなりません。どうか自信をお持ちになって下さい」
 何か慰められているのは判り、小紅は微笑んだ。
「そうね、ありがとう」
 お琴もまた微笑み、膳を下げて今度こそ部屋を出ていった。もちろん、その前に小紅から返して貰った碧天の錦絵を懐深くにしまい込むのは忘れるはずもない。
 確かにお琴の指摘は正しかった。小紅自身はまだ自覚はないけれど、彼女の己れの美貌を自覚しない美しさは無垢な汚れを知らない花のような感があった。例えるならば、野辺にひそやかにひらいた純白の野菊のような。
 自分はつくづく幸せ者だと小紅は思う。父は多額の借金を作り、情人と夜逃げして、娘である自分を棄てた。しかし、叔父がその借金をすべて肩代わりして、こうして難波屋でお嬢さま暮らしができる。更にお琴のように忠実で頼りになる女中とめぐり逢えた。
 棄てる神もあれば拾う神もいる。その諺が満更、外れてはいないことを身に滲みて感じている今日この頃であった。
 できれば、これからの人生はすべてを叔父のために使いたい。というより、欲得づくなしに自分を救ってくれた叔父のために働きたいと思う。こんな非力な自分ではあるけれど、何かしら難波屋のためにできることがあるはずだ。

 恋一夜

 だが、その小紅の決意も脆く崩れ去るような出来事が起こった。
 難波屋で起居するようになって半月が過ぎたある日のことである。暦は既に師走に入っていた。
「大小掛け軸、暦(こよみ)は要らんかね〜」
 師走になると江戸の町の至るところで見かけられる暦売りが来年の暦を売る時季になった。これは江戸の風物詩でもある。
 その朝は寒気が緩み、小春日和を予感させる温かな陽射しが障子を通して廊下にまで差し込んでいた。よく磨き抜かれた廊下は飴色の艶を帯び、小紅は更にそれに磨きを掛けようと、せっせと雑巾掛けに余念がなかった。
 陽の当たる廊下を何往復かしたところで立ち上がり、腰をポンポンと手で叩く。
「しばらく動かない間に、身体がなまっちまったみたいね」
 小紅は苦笑いする。何しろ難波屋では膳の上げ下げまで女中がすべてやってくれる。父と暮らしていた頃は大店のお嬢さまとはいえ、自分のことはすべて自分でやっていた。ここでは何もしなくて良いのはありがたいが、身体を動かせないのは実は小紅にとっては苦痛になる。
 じっと置物のように座っているのは性に合わないのだ。が、何かしようとすると、お琴が泡を食って
―そんなことをお嬢さまにおさせしたら、私が旦那さまに叱られますから。
 と懇願する始末では、何もできない。
 なので、どうせ部屋に閉じこもって暇を持て余すくらいならと、お琴に頼んで布を持ってきて貰った。その中から気に入ったものを選び、今は少しずつ縫っている最中である。