残り菊~小紅(おこう)と碧天~
一人取り残された小紅は悔し涙を眼に滲ませた。あんな男が仮にも良人だなんて、仏さまも酷い。これも全部、おとっつぁんのせいだ。おとっつぁんが無責任にも多額の借金を残して若い女と夜逃げなんかするから、私がこんな憂き目に遭わなくちゃならない。
小紅がそっと目尻に堪った涙を拭っていると、遠慮がちに声がかけられた。
「お嬢さま、先ほどは勝手に持ち場を離れまして、申し訳ございません」
「あなたは」
先刻、武平に言われて居室まで小紅を送り届けるはずだった女中である。あのときはかなりの年配かと思ったけれど、陽の下でよくよく見ると、まだ四十そこそこといったところだ。乳母のおさわとほぼ同じ年頃だろう。
優しげな眼許が乳母を彷彿とさせ、小紅はつい大粒の涙を流してしまった。
「若旦那さまのことはすべて旦那さまにご報告しておきましたから、何のご心配も要りませんですよ」
その言葉を証明するかのように、その夜、準平が小紅の寝所に忍び込んでくることはなかった。その女中はお琴といって、これからは小紅付きの女中になると判った。お琴が側にいてくれれば、この難波屋での新しい生活も百万の味方を得たようである。
お琴は翌朝、朝食を居室まで運んできてくれた時、笑いながら言った。
「若旦那さまはいつまで経っても、旦那さまに頭が上がらないんです。何せ、若旦那さまが吉原で湯水のように使うお足はすべて旦那さまから出ているんで、旦那さまを怒らせてしまったら、遊興費がなくなっちまいますからね」
昨夜もお琴から事の次第を聞いた武平は準平を呼びつけてさんざん説教した挙げ句、
―祝言を済ませるまでは、たとえ一つ屋根の下に暮らしていようが、小紅に手を付けちゃならねぇ。
と、きつく言い渡されたそうだ。更に
―もし言いつけが守れないようなら、祝言まではお前にはこの家の敷居を股がせねぇから、よおく憶えておきな。
とまで言われたそうである。
「それにしても、旦那さまもお気の毒ですよ。あんな傑出したお方がどうして、若旦那さまのような出来の悪い倅に困らされてばかりなんでしょうね」
使用人が主筋の倅に使う言葉としては考えものではあるけれど、あれほどの暗愚な倅であれば致し方ないのかもしれなかった。
それよりも小紅は別のことが気掛かりだった。
「お琴さんはあの後、準平さんから特に意趣返しなんかされなかった?」
準平が執念深そうな気性なので、告げ口をしたと後で嫌がらせをされたのではと不安になる。
と、お琴は人の好さそうな丸顔に笑みを一杯にひろげた。
「ご心配頂いて、ありがとうございます。ですが、何の心配もありませんですよ、お嬢さま。旦那さまはすべてお見通しですからね。若旦那さまだって迂闊な真似はできないんですよ」
お琴は働き者で実直、情にも厚そうであるが、ただ一つ、お喋りと詮索が好きなのが玉に瑕のようだ。彼女は小紅が朝飯を取っている間中、ずっと給仕しながら難波屋の内情を教えてくれた。
その中で準平の素行の悪さは想像以上のものだと判った。昨年、下働きの若い娘に手を付けて身籠もらせたこと。その娘は十七で秋には筒井筒の幼なじみと所帯を持つことが決まっていた矢先の出来事だった。
嫌がる下女を空き部屋に連れ込み、さんざん陵辱した挙げ句、身籠もったと打ち明けられれば?憶えはない?とすげなくそっぽを向いた。
事の次第を知った武平はその女中を人気のない場所で出産させ、身二つになった女は一年遅れで許婚者と漸く祝言を挙げた。生まれた子どもは男の子だったが、そんな経緯で生まれた子を難波屋に迎えることはできないと、里子に出されたそうだ。
その後、祝言を挙げたものの、女は亭主とは不仲続きで、結局離縁となった。亭主の方はやはり無理やりとはいえ、他の男に抱かれた女は許せないと女の前で言ったのだという。離縁されて実家に戻った女はほどなく自害して果てたそうだ。里子に出された赤児も母親の後を追うように儚くなった。
「酷い話でしょう? 旦那さまはお心を痛められて、その娘が嫁ぐときにもお孫さまを里子に出されるときも、かなりのお金をお使いになったそうですよ。なのに、結局、二人とも死んじまって。あんな極道息子をお持ちになっちゃア、旦那さまが健康を損なわれちまうのも仕方ないですね」
これから良人になる男が女中を手籠めにした挙げ句、孕ませた。その事実だけでも小紅にはかなりの衝撃であった。女が懐妊したとひそかに打ち明けたのに、憶えはないと言い切ったその無責任さにも余計に幻滅する。
その女と子どもの哀れな末路ももちろん気にはなったけれど、今のお琴の言葉はそんな感傷など吹き飛ばすには十分であった。
「旦那さまはお身体が悪いの?」
お琴はそのときだけは表情を翳らせた。
「そうなんですよ。やはり、長年連れ添われた奥さまをお亡くしになってから、どっと老け込まれましたねぇ。こんなことを申し上げちゃ何ですが、お内儀(かみ)さんも若旦那さまほどではありませんけど、私ども奉公人たちの間では評判がよろしくなかったんですよ。感情の起伏の激しくて、やたらと丁稚を怒鳴り散らすのも母子そっくり。それでも、旦那さまは奥さまをそれはもう大切されていましたからね」
放っておけば延々続きそうなお琴のお喋りを小紅はやんわりと遮った。
「それで、旦那さまはどこがお悪いのかしら」
お琴は肩を竦めた。
「申し訳ございません。どうもいつもの喋り癖がまた出たみたいですね。亭主にもよく言われるんですよ。お前のいちばんの難所はそのお喋りが過ぎることだってね。そうそう、旦那さまのお身体のことでしたね。旦那さまは心ノ臓を患っておいでなのですよ」
「心ノ臓? それは大変なことだわ。もちろん、お医者さまには掛かっているのでしょうね」
「ええ、それはもう。あの若旦那さまお一人を残して今は死ねないとご自分のお身体には人一倍気を遣っていらっしゃいます。でも、昨日、旦那さまがこんなことを仰せでしたよ」
―準平はどうしようもない男だが、小紅が女房となってくれれば、先行きも安心だ。小紅は兄さんに似てしっかり者だし、気働きもできる。その上、心優しい娘だから、この難波屋を安心して託せる。私ももう、いつでも安心して死ねますよ。
就寝前の薬湯を運んだ際、武平はふとそんなことを呟いたという。
「私は旦那さまに、そんな縁起でもない話は冗談でも止めて下さいとお願いしたんですけどね」
「お身体の調子が悪いなんて、ちっとも知らなかったわ。お琴さん、教えて下すって、ありがとう」
今の叔父の言葉を聞いた上では尚更、準平との結婚を断ることなんてできそうにもない。武平がそこまで自分を買ってくれているのは嬉しかったけれど、今は叔父の体調の方が気掛かりであった。
そんな体調で上州屋の負債をすべて肩代わりなどすれば、ますます身を粉にして働かなければならないだろう。父の残した借金はかなりのものだった。世話になって、こんな言い方は失礼だろうが、難波屋程度の店が完済できる額ではない。
今回、完済したというのはかなりの無理をしたはずで、その分のしわ寄せは当然来るはずであった。身体に無理はないのだろうか。
作品名:残り菊~小紅(おこう)と碧天~ 作家名:東 めぐみ