残り菊~小紅(おこう)と碧天~
小紅は赤くなる。白粉をかなり厚めに塗りたくっているので、栄佐に赤面したのを感づかれないだろうことがせめてもの慰めといえた。
「見てみな」
と、舞台に出る前に姿見で見せてくれた自分は、見たこともないどこか別の女に見えた。
鏡に映っているのは吉原の?朝霧楼?の振袖新造、環(たまき)であった。華やかな打ち掛けや豪奢な帯、簪に吉原に生きる女の気概と哀しみをそこはかとなく滲ませて―。
「良いか、舞台に上がったら、客の方は見るな。ひたすら自分は吉原の振新、環だと言い聞かせるんだ。念仏のお題目のように唱えてろ。その間に全部終わる」
控え室を出て通路をまたしばらく歩いた。客のどよめきが聞こえてきた時、いよいよだと思った。
「この先が舞台袖になる。遅れた理由は言わなくて良い。うっかり声を出したら、女とバレちまうからな。何を訊かれても、頭を下げて切り抜けろ。俺の出番は花魁道中だけだから、それが終われば、お前は控え室に戻って、さっさと着替えて、部屋の前で待っててくれ。何か言われたら、碧天の許婚者だとでも言えば良い」
行けと背中を軽く押され、小紅はよろめくようにして歩き出した。しばらく背中に栄佐の心配そうな視線を感じた。
だが、ここからは自分ひとりでやらなければならない。
そう、私はこれから舞台が終わるまでは板東碧天。いつか立て役になりたいのだと言い切った彼の評判を落とすわけにはゆかない。何しろ、これは彼が役付きとして出演する初めての舞台なのだから。
小紅は深呼吸を一つして、舞台袖に上がった。そこには既に出番に備えて待機している大勢の役者たちがいた。
「梅光(ばいこう)さん、碧天が来ました」
その他大勢の一人なのだろう、遊女のなりをした女形が言う。
「遅いぞ、碧天」
先頭に立つひときわ華やかな美貌の花魁が振り返った。この艶姿に野太い男の声というのは、どうにも頂けないが―、それはこの際、考えないようにする。
最初に口を開いた女形が言う。
「碧天、どうしたんだ。いつもなら誰よりも張り切って真っ先に支度を終えるお前が遅れるだなんて」
―何を訊かれても、頭を下げて切り抜けろ。
栄佐の言葉を思い出し、小紅は深々と頭を下げた。
「爽良(そら)、もう良い。とにかく今は皆、心を一(いつ)にして舞台を成功させる方が先だ」
「はい」
爽良と呼ばれた役者が神妙に頷いた。
凄い、流石は安田梅光、天下の名女形と呼ばれるだけはあるわ。
などと、呑気に感心している小紅は意外に度胸があるのかもしれない。
「さあ、出番だぜ」
梅光が頷き、一同を見回した。
「はいっ」
と、その場に控えた総勢十数名の声が出番前の張りつめた空気を震わせる。
小紅の場所は、何と立て役梅光のすぐ隣であった。促され位置に着いた小紅は?行くぞ?と梅光の声に促され、舞台に足を踏み出す。
『朝霧楼傾城始末』
原作 東恵泉・脚本 安田梅光
ここは花の吉原、数ある遊廓の中でも格の高さでは名うての本籬(ほんまがき)?朝霧楼?。
朝霧楼の稼ぎ頭である花魁花散里の許に通っている馴染み客は京から江戸に遊学している公卿の子息光君(ひかるのきみ)である。
―女郎は客に惚れさせても、けして客に惚れるな。
いつも煩いほどに言い聞かされているはずなのに、花散里は光君の優しさや男らしさに惹かれ、いつしか本気で恋に落ちた。
光君もまたお職(しき)を張る花魁ながら、心清らかで慎ましい花散里を心から愛するようになる。
しかし、花散里には以前から藤堂薫という大身旗本が懸想していた。花散里の心が自分ではない別の誰かに傾いたことを知った薫は嫉妬のあまり乱心し、ついに花散里を斬り殺し、自分もその場で切腹して果てる。
遊女はどんなに位の高い花魁でも、死ねば無縁仏として葬られ、墓は作られない。
最後の場面では、無縁仏を祀るさる寺で若く美しい僧侶が経を捧げているところで終わる。僧の周囲では満開の桜が春爛漫を告げているのに、僧は滂沱の涙を流しながら、ひたすら経を唱えている。
その美僧こそ、光君の変わり果てた姿であった―。
そこで幕が降りる。
舞台は第二幕一場。花魁道中。
これからは花散里の最も華やかな全盛期を描く場面だ。全体を通して悲劇的色彩が濃いこの物語では唯一、明るい場面でもある。
吉原の目抜き通りを朝霧楼の花魁花散里が闊歩する。
しゃなり、しゃなりと紅い高下駄で八文字を描きながら歩いてゆく。若い衆が花散里に緋の番傘をさしかけ、咲き匂う大輪の花さえ色褪せる美貌の花魁は輝くばかり、その後ろには禿や振袖新造が付き従う。
小紅はもちろん平然としていたが、内心は冷や汗ものだった。科白がないのが幸いでもあるけれど、ただ黙って歩くだけでも、かなりの重圧だ。
花散里演じる梅光が優雅かつ大胆に八文字を切って歩を進める毎に客席から声がかかる。
「いよっ、梅光。三田屋」
梅光は江戸でも知らぬ者のない名女形、その声援も凄まじい。それに混じって、時折、
「碧天っ」
と、これは女性らしい声がかかる。
梅光にはもちろんはるかに及ばないが、碧天と呼ぶ者も意外に多いのは愕いた。大部屋ながら浮世絵にまでなり、一部に熱狂的ファンがいるというのは、どうやら本当のようである。
その碧天の初めての役付き舞台ともなれば、余計に重圧に押し潰されそうな小紅だ。
花魁道中は本当にただ歩くだけなので、それは助かった。舞台を長い時間かけて歩き、やっと出番が終わったときは、もう一生分の集中力を使い果たしたかと思った。
栄佐に指示されたとおり、まだ舞台袖に残っている仲?から抜け、一人、控え室に戻る。舞台衣装をすぐに脱ぎ棄て、化粧もすべて落とした。少し勿体ない気もしないでもないが、ただの小娘が女形に化けて天下の名女形梅光と共演できたのだ。それだけで一生の記念になるだろう。
夜着姿というわけにもいかないだろうからと、予め栄佐が出してきてくれた着物に着替えた。何しろ、ここは芝居小屋だから、町娘から花魁まで衣装の種類は色とりどり、選び放題なのだ。
着替え終わると控え室を出て、これも彼に言われたように通路で栄佐を待つ。
四半刻も待たない中に通路の向こうから、栄佐が駆けてきた。
「よくやったな、小紅」
栄佐は小紅を抱きしめた。
「俺も今し方、客席の方をちらと覗いてきたが、凄ぇ反響だぜ。今日の碧天はいつもにも増して可憐で色っぽくて、本物の娘みたいだと皆が興奮して喋っていた」
そこで栄佐は小紅の耳許に口を寄せた。
「そりゃ、正真正銘。本物の娘なんだから、当たり前だよな」
その時、舞台袖から漸く梅光たちが戻ってくるのが見えた。
「碧天、今日はどうしたんだ、遅れてきたから、どうなるのかと思ったら、結構良かったじゃねえか」
爽良と呼ばれていた女形がまだ遊女姿のまま、気軽に声をかけてくる。
「いや、ちょっと昼飯を食い過ぎたせいか、腹痛で。治ったから良かったようなものの、ヤバかったですよ」
栄佐の態度が丁重なところを見ると、爽良は先輩格なのだろうか。
爽良はプッと吹き出した。
「お前らしいな。だが、体調管理も役者の大切な仕事の一つだぞ。気を付けろよ」
「へえ」
作品名:残り菊~小紅(おこう)と碧天~ 作家名:東 めぐみ