残り菊~小紅(おこう)と碧天~
「随分と健脚だねぇ。女飛脚にでもなった方が良いんじゃねえのか?」
まだ二十歳過ぎの大工がはやしたてる。
そんな珍妙な鬼ごっこを繰り返し、小紅が追っ手を振り切って飛び込んだのは何と両国広小路の安田座、芝居小屋であった。
駆けに駆けてやっと両国橋が見えてきたときは安堵感のあまり、その場に座り込みそうになってしまった。だが、ここまで逃げてきて、捕まるわけにはゆかない。
そもそも両国橋の名の由来は武蔵(江戸)の国と下総(千葉)の国を渡すということで名付けられた。?江戸名所図絵?には
―浅草川の末、吉川町と本所本町の間に架す。長さ九十六間、橋の前後ならびに橋上に番屋を据えて、これを守らしむ。
とある。
その長い橋には今日も大勢の人だかりができていた。こんな天気の良い日、しかも顔見世興行が行われるのだから、当然だ。
小紅は両国橋を息せき切って渡った。
長い長い橋を一心に駆ける。ただ愛しい男の許へ向かって。
この瞬間、小紅はもう二度と後戻りできない橋を渡ったのかもしれない。それは栄佐という男へと続く橋でもあった。
もう、眼前に対岸の町並がひらけてきた。往来沿いに様々な店や芝居小屋が立ち並んでいるのが見える。中でも圧倒されるのは、かなりの数の小屋掛けであった。
小屋掛けには酒樽の薦被(こもかぶり)(荒く織った筵)が使われていたので、この筵には各酒問屋、製造元の屋号などが入っているのが見えた。緞帳などもそうだが、三座のような格式のある劇場とはちょっとこの辺も勝手が違う。
江戸時代、両国は文化と娯楽を堪能できる場所であった。ここで営業を許されるのは常設店舗ではなく、昼だけ営業して夜には片付ける類の見世である。髪結床や茶屋などの見世が処狭しと建ち並んでいるが、やはり両国橋から見て最初に眼を圧するのは数え切れないほどの芝居小屋であった。
橋の上でも夜着姿で疾駆する小紅は通行人の意表を突きっ放しであった。しかし、そんなことに構ってはいられない。
何とか橋を渡りきり、小紅は荒い息を吐きながら栄佐を探す。何しろ裏店からここまで、かなりの時間、全速力で疾駆してきたものだから、それでなくても病気で使い果たした体力すべてを消費してしまった。
この分では、また今夜、熱がぶり返すかもしれない。などと場違いなことを考える。
小紅が飛び込んだのはむろん、客が押しかける劇場の入り口ではなく、裏口であった。裏口からは舞台裏(楽屋)に通じている。出演役者たちの控え室も近いはずだ。三座などは三階まで楽屋があるようだが、一般の小屋はそんな大層な代物ではない。
大抵は立て役や役者座頭などの控え室は個室で、大部屋役者はその名のとおり、その他大勢が一緒の部屋を使う。適当に見当をつけて通路を歩いてゆくと、直に?控え処?と記された木札が眼に付いた。
「ここだわ!」
歓声を上げて扉代わりの筵を跳ね上げて中にすべり込んだ。だが、そこは大部屋ではないらしく、個人用の控え室らしかった。小さな鏡台やら小道具が置いてあるが、意外に狭い。運良く人がいなくて幸いだった。
小紅はすぐにそこを出て再び通路に戻った。
と、後ろから何者かに肩を掴まれた。
ひぃっと、我ながらみっともない声を上げ、恐る恐る振り返る。
「小紅!?」
眼の前に栄佐が眼を丸くして立っていた。
「おい、何でお前がこんなところにいるんだよ」
「昼ご飯を食べてたら、準平さんに雇われたらしいならず者が来たの。それで何とか逃げてきたのよっ」
まくし立てると、栄佐はしばらく惚けたように彼女を見つめていたが、やがて、身体を揺すって笑い出した。
「それで、お前、裏店からここまで走って逃げてきたって!? こいつは良いや、まったく、お前らしいっていうか」
憎らしいことに、栄佐は涙眼になって笑い転げている。
何よ、人が大変な目に遭って、病み上がりの身体で余力を振り絞って逃げて来たっていうのに、笑うことなんかないでしょうに。
小紅は叫んだ。
「笑ってる場合じゃないわよ。そのならず者、何とか途中で振り切ったけど、まだ近くを探してると思うし」
栄佐がぼんのくぼに手をやった。
「そりゃそうだよな。どうせ、難波屋に大枚ちらつかされてるんだろうし、そう簡単には諦めねえだろう」
彼はしばらく思案顔だったが、すぐにポンと手を打った。
「よし、こっちに来な」
栄佐に手を引かれ、小紅は通路をまた走る。
「栄佐さん、どうするつもりなの?」
走りながら訊くと、彼は不敵な笑みを浮かべた。
「俺に考えがある」
彼は?大部屋控え処?の札が賭けてある部屋の前で止まり、小紅を先に押し込み、自分も続いた。
「丁度、皆が出払っていて良かった。とにかく、お前はここで着替えるんだ」
「着替えるって―」
栄佐は小紅を真正面から見つめた。こんな真剣な彼を見るのは初めてだ。
「良いか、これから俺の言うことをよく聞けよ」
栄佐が話して聞かせたのは、何と栄佐と小紅が入れ替わって舞台に出るというものだった。
「そんな無理よ。私は一度だって稽古したこともないし、そのお芝居を観たことだってないのよ?」
栄佐は厳しい表情で小紅を見つめた。
「じゃア、このまま、そのならず者にとっ捕まっちまっても良いのかい?」
「それは、―いやだわ」
「だろ? なら、一か八かやってみろ。俺の役はたいしたもんじゃねえ。科白もないし、ただ舞台に突っ立ってれば良いんだ。それなら、お前だって、やれる」
「でも、私と栄佐さんでは身の丈も体格も違うのに、あなたの贔屓筋なんて、すぐに別人だと見破られてしまうんじゃない?」
「人間なんてものは勝手なものさ。自分が見ようとしたものしか見ないし、信じようとしたものしか信じない。お前を見るヤツがお前を板東碧天だと信じ込んでれば、お前は俺なのさ。マ、俺の仲?は妙に思うヤツもいるかもしれねえが、そこは皆、同じ釜の飯を食う者同士だ。滅多なことでは何も言いやしねえよ」
栄佐が早口で言った。
「とにかく着替えろ。俺はあっちに向いてるから」
ここまで来たら、栄佐の策に乗るしかない。小紅は腹をくくった。江戸っ子はやるときゃ、やるんだ。自分に言い聞かせた。
夜着を脱ぎ、栄佐が出してくれた舞台衣装に手早く着替える。
栄佐の今回の役は吉原の太夫(花魁)付きの振袖新造である。振袖新造は?振新?と呼ばれ、禿から昇格して花魁になるまでの言わば候補生だ。この時代はまだ姐花魁について座敷には出るが、客は取らない。
やがて突き出しといって正式な水揚げを経て、初めて花魁となる。
遊女は帯を前で結ぶが、結び方が決まっている。これは栄佐が手ずから結んでくれた。
着替えが終わると、鏡台に向かい、今度は彼が化粧をしてくれる。襟足までたっぷりと白粉を塗り、眦にも唇にも赤い紅をのせる。
最後に鬘を被せて完了だ。
栄佐は愕くほどの速さでそれをこなした。
「これで良し」
栄佐は小紅を正面から見つめ、満足げに頷いた。
「小紅、滅法きれぇだぜ。こいつは二度、惚れ直しそうだ」
「もう! こんなときにふざけないで」
作品名:残り菊~小紅(おこう)と碧天~ 作家名:東 めぐみ