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残り菊~小紅(おこう)と碧天~

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 栄佐は神妙に頷いた。
「おい、ところで、その可愛い娘は誰だ?」
「俺のコレですよ」
 と、小指を立てて意味深に片目を瞑って見せる。
「幾ら情人(いろ)でもここに関係者以外、連れてきちゃいけねえってことはお前もよくよく知ってるだろう。これからは気を付けろよ」
「重ね重ね済みません。こいつがどうしても楽屋裏を見たいなんて言い出してきかねえもんだから」
 ほれ、お前も謝れ。と、頭を押さえつけられ、小紅もまた深々と頭を下げた。
「じゃあ、ひとまず俺はこの娘を外まで送ってきます」
 栄佐が言い、小紅はもう一度ぺこりと頭を下げた。
「待ちなさい」
 小紅が背を向けようとした時、それまで一語も発さなかった梅光が初めて呼び止めた。
「何でしょう、師匠」
 栄佐が愛想よく応えると、梅光は首を振る。
「お前ではない。その娘さんに訊いているのだ」
「あ、あの」
 小紅は突然のなりゆきにおどおどと栄佐を見た。栄佐にも予想外の展開だったのか、整った面には濃い懸念の色が浮かんでいる。
 花魁姿の梅光は神々しいほど美しく、迫力がある。じっと見つめられると、身体がどんどん強ばって緊張のあまり石になってしまいそうだ。
「お前さん、名は?」
「小紅といいます」
「小紅さんは舞台を見たことがあるのかね。それとも、自分が何かで舞台をやったとか、近い縁者に役者関係の仕事をしている人がいるとか」
「いいえ、誰もそんな人はいませんし、私もやったことはありません。舞台を見るのは今日が初めてです」
 梅光は眼を心もち細め、軽く頷いた。
「そうかい。いや、つかぬことを訊ねて、愕かせてしまったね。小紅さん、生憎と野郎歌舞伎は男ばかりだが、江戸には女が舞台を踏める場所がないわけじゃない。興味があるのなら、是非、お前さん自身が本物の舞台を踏んでみると良い」
 梅光はそう言うと、少し微笑み、小紅と栄佐の前を通り自分の控え室へ姿を消した。
 流石は天下の名女形、そこにいるだけで辺りを圧するような存在感だ。これこそが真の立役者が持つ華なのだと小紅は実感した。

 芝居小屋を出て、二人はしばらく黙って歩いた。
「どうやら師匠はお前と俺の入れ替わりには気づいてなすったようだな」
 沈黙を破ったのは栄佐の方であった。
「やっぱり、栄佐さんもそう思う?」
 小紅も実は今、ずっとそのことを考えていたのだった。
「大丈夫かしら、男しか上がれない神聖な舞台に女の私が上がったりして。梅光さんが怒って、栄佐さんを破門にしたりしたら、どうしよう」
 栄佐は考え込みながらも、首を振る。
「それは恐らくないだろう。師匠がお前に直に声をかけたってことは、お前に役者の素質があるって思われたんだろう。俺なんざ、師匠に褒められたこともねえんだぞ。何だかな、ド素人で、ろくに稽古もしねえで本番に出たお前に負けるかと思ったら、複雑だな」
「栄佐さん、意地悪言わないで。梅光さんはほんの気まぐれで帰り際にあんなことを訊いただけかもしれないでしょ。それに、私は江戸で一番のお針子になるのが夢。もう、舞台なんて、こりごりよ。緊張のあまり、心臓がバクバクして冗談でなく死ぬかと思ったわぁ」
「そっか」
 栄佐が笑いながら、小紅の髪をくしゃっとかき回す。
「あとな、難波屋のことはもう心配しなくて良いぜ」
 小紅は弾かれたように顔を上げた。
「どうして? 何かあったの」
 栄佐は笑って頷いた。
「お前が俺の代わりに舞台に出てる間、俺は難波屋に直接出張ってきた。いつまでも大事な俺の女を追いかけ回して貰っちゃ困るってな。マ、刀を突きつけて脅してやったら、もう泣きそうな顔で二度とお前には手を出さねえと約束した。証文も書かせたから、安心して良い」
 栄佐はそこで立ち止まり、空を仰いだ。
 三月初旬の空はどこまでも涯(はて)なく蒼く続いている。遠くに絵筆でさっとひと描きしたような細い雲がたなびいている。
 今日は朝から上天気で昼を回った今は、気温もかなり上がっていた。
「それから、お前に言わずに勝手をして申し訳ねえが、難波屋には真実(ほんとう)のことを話したぜ」
「真実のこと?」
「難波屋の先代、つまりお前の叔父さんのことさ」
 栄佐には難波屋を出てきたことを打ち明けた時、先代の武平が小紅の叔父であること、跡取りの準平は女房の連れ子で実子ではないことも話している。
 むろん、小紅の初恋の相手が武平であること、小紅が大切に着ていた袢纏が武平のものだとは話してはいない。武平のことはたとえ栄佐といえども、話せない―小紅の心にずっと秘めておきたい大切な想い出であった。
 小紅が黙っているので、栄佐が言った。
「やはり、まずかったか?」
 小紅は?ううん?と首を振った。
 栄佐は小さく息を吐いて続けた。
「難波屋はここらで真実を知った方が良いと思ったんだ。真の阿呆でもない限り、真実を知れば、今まで自分がどれだけ愚かなことを積み重ねてきたか自ずから悟る。先代がどんな想いで自分の子でもないガキを引き取り、惜しみない愛を注いで大切に育てたか。あいつももう子どもじゃねえんだ、それを知るべきだし、知らなければ、一生ずるずると堕ちるだけ堕ちていくだろうからな。それはまた亡くなった先代の望むところじゃねえはずだ」
「準平さんに心を入れ替えさせるには、真実を伝えるしかないと思ったのね。ありがとう、栄佐さん。そこまで考えてくれて」
 血は繋がらなくても、大嫌いな男でも、準平は従弟だ。昔は何度も一緒に遊んだ。だから、できれば準平には眼を覚まして真っ当な人間になって欲しい。これから難波屋を盛り立てていって欲しい。
 それがなさぬ仲の準平を我が子として大切に慈しみ育てた武平への何よりの供養にもなると思う。
「お前がそう言ってくれて良かったよ」
 栄佐は空から小紅に視線を戻し、微笑んだ。
 栄佐からすべてを聞かされた準平は泣いていたという。準平にしても、自分が武平の実の子ではなかったという事実は相当な衝撃だったようである。
 しかし、この荒療治が上手くいけば、準平は今度こそ心を入れかえてくれるのではないかという期待も持てた。
 栄佐が小紅を見つめた。
「これであいつがお前を苦しめることは二度とねえ。今までさんざ怖い想いをしたろうが、これからは安心して良いぞ」
「そうね。これですべてうまく行くと良いな」
 小紅は栄佐に微笑み返し、着物の襟元から首飾りにしている数珠を彼に見せた。
「栄佐さんがくれたお守り、ずっと身につけてたの。きっと、これからもこのお守りが私を守ってくれるわよね」
「おいおい、数珠だけじゃないぞ。俺もずっとお前の側にいて守ってやるからな」
 何故かムキになったように言い募る栄佐を見つめ、小紅は今日という日から自分の新しい人生が始まるような心もちがしていた。
 春弥生、江戸は一年で最も華やかな季節を迎えようとしている。
 寄り添って立つ二人の頭上を黄色い二羽の蝶たちが戯れ合うように飛び交い、いずこへともなく消えていった。

                (了) 
  
  


 
 あとがき

 数年ぶりの江戸物です。かつ、ストーリーに独創性を持たせたいとあれこれと無い知恵を絞っていたら思いついたお話です。