残り菊~小紅(おこう)と碧天~
栄佐は笑った。いつものように手が伸びてきて、艶やかな黒髪を撫でてくれる。その手つきが常より少しだけ優しいようなのは気のせいだろうか。
「同じ科白を何度も言わせるな。俺はそのまのお前を丸ごと好きになったんだ。俺が見た小紅に惚れたんだから、お前が何を話そうが話すまいが、関係ない」
「ありがとう、栄佐さん」
風車売りが二人とすれ違い、遠ざかってゆく。二人はその場に立ち尽くし、いつまでも風車売りを見送った。
運命が動き出す瞬間
暦が弥生に変わった。その日、江戸両国広小路では中村座・市村座・森田座、いわゆる三座でそれぞれ春の顔見世大興行が行われた。他のあまたの芝居小屋でも、倣うかのように春の顔見世と銘打っての興行の幕が開く。
碧天の所属する安田座は幕府の認可を受けた三座ではなく、広小路にはそうした三座以外の芝居小屋もたくさんあった。
三座は定式幕(じょうしきまく)の使用が許される。これは歌舞伎の正式な引き幕で、官許の三座だけが許された。これら以外の宮地芝居(江戸三座以外にもあった芝居)などは上下する緞帳(どんちよう)を使用したので、?緞帳芝居?、?緞帳役者?と蔑まれた。
安田座はその三座以外の中では、比較的名も知られていて、格上の一座として認知されている。
栄佐こと板東碧天が所属するのは安田座である。この安田座はもちろん三座に比すると歴史は浅く正式な認可を受けてはいないものの、名の知れた花形役者を数多く揃えていることで三座を凌ぐ人気を博していた。
むろん、小紅も栄佐から招待券を貰っていたのだけれど、実はこの二日前から風邪を引き込み、寝込んでいた。京屋から引き受けた仕事の納期が迫っていて、夜なべしたのが祟ったようだった。
寝込んで二日目は熱が上がり、床の上に起き上がるのも億劫なほどだったのだ。心配した栄佐は舞台直前の通し稽古で忙しいにも拘わらず、何度も様子見に長屋に戻ってきては、粥を炊いたりと世話を焼いてくれた。
準平に攫われそうになってから十日余りが経っているものの、その間、何も起こらなかった。流石にあのどうしようもない男も諦めたのかもしれないと小紅はホッとしていたのだが。
栄佐はまた違う考えのようで、
―あの手合いはそうそう簡単に獲物を諦めちゃくれねえんだ。
と、かなり警戒しているようである。
結局、小紅は栄佐の生まれて初めての役付きとなった晴れ舞台を見ることができなかった。
―ごめんなさい。
しゅんとして謝る小紅の髪をくしゃとなで回しながら、栄佐は笑い飛ばした。
―病気なんだから、仕方ねえだろ。それに、碧天さまはこんな科白もつかねえちょい役で終わるつもりはないんだぞ。これからもっともっと名を上げて、いっぱしの立て役者になるんだから。そのときに俺の晴れ姿を見てくれれば良い。
更に彼はこんなことも言った。
―んな偉そうなことを言ってるが、立て役なんて俺の柄じゃねえよな。
強気の彼には珍しい弱気発言に小紅は真顔で反論したものだ。
―そんなことない。私には栄佐さんが立役者になって舞台で堂々と主演張ってる姿が見えるわ。
―小紅、俺はもう大部屋に七年もいるんだ。普通、そんな役者が立て役になりてえなんて言ったら、誰でも大笑いするか、よほどの身の程知らずの阿呆だと馬鹿にするかのどちらかだよ。でも、お前は最初に俺の夢を話したときも笑ったりせずに真面目に聞いてくれた。その時、俺はお前を嫁さんにしてえと思ったんだ。
昨日は熱が高くて、一人では粥も食べられなかった。だから、横になったまま、栄佐に粥を食べさせて貰ったのだ。
むろん、最初は頑なに遠慮したのだけれど。
―なに恥ずかしがってんだよ。こういうのは男と女なんて関係ねえだろ。病人だから食べさせてやるって言ってるんだ。それとも何か、お前は匙なんかじゃなくて、この俺から口移しで食べさせて貰いてえとか?
意味深な流し目をよこされ、小紅は真っ赤になった。
―な、なに馬鹿なこと言ってるんだか。
結局、横になったまま匙で食べさせて貰ったのだが、その後、また熱が上がったのは風邪のせいではなく栄佐のつまらない戯れ言のせいだとしか思えない。
その熱も今朝にはほぼ下がった。まだ微熱はあるようだが、この分では二、三日内には起きられるようになるだろう。
興行は十数日続くが、栄佐の役は他の役者数人と交代でやるため、今日・明日としか出番はない。だから、今回は見にいくのはやはり無理そうだ。
栄佐は昨夜もまたやってきて、今日一日分の飯だと言って、お握りを大皿に十個くらい作っていった。そろそろ昼時だろう、久しぶりに空腹を憶え、小紅は枕許の皿に手を伸ばした。
形も不揃いの握り飯はいかにも無骨な見かけだけれど、塩味がよくきいて美味しかった。ひと口囓り、小紅はあまりの幸福に泣きそうになる。
武平を失って、もう二度と誰かを好きになることもないと思っていたのに、こんなに優しくて素敵な男とまためぐり逢えた。
ぐすっと洟を啜り、ふた口めを囓った時、突然、腰高障子が開いた。小紅は愕いて握り飯を取り落としてしまった。
「あ―」
小紅は悲鳴のような声を上げた。準平ではないが、明らかに目つきの悪いならず者風の男が三和土に立っている。
「お嬢ちゃん、ちょいとおじさんに付き合ってくれるかな? さるお人からお前さんを連れてくれば、大枚を貰えると約束してるんでね」
やはり、準平の手の者だった。小紅は絶望感に眼の前が白く染まるのを感じた。それにしても、何て執念深くて、しつこい男なのだろう。
「来ないで!」
そう言って堪えてくれるような相手ではないことは百も承知だ。
小紅は注意深く周囲を窺った。枕許には盥が置いてある。熱が出た小紅の額に栄佐が手ぬぐいで冷やしてくれるために持ってきたのだ。
まだ、水は半分ほど入っている。小紅から三和土に立っている男までの距離なら、投げて当たる確率は五分五分といったところか。
小紅は男の方を睨みつけたまま、そろそろと手を伸ばし盥を手にした。次の瞬間、盥を男に向かって勢いよく投げつける。
「わぁっ」
男が蛙の潰されたような声を上げて、無様に転倒した。
その隙に小紅は男の傍を通り抜け、長屋前の路地裏に出た。
「させるか」
敵もさることながら、すぐに起き上がってくる。小紅はついでに眼に付いた大きな石ころ二つを拾い上げ、男の顔めがけて続けざまにぶつけた。
「うぎゃっ」
今度は潰される寸前の鶏のような声を上げ、男は眼を押さえてしゃがみ込んだ。
小紅はそのまま脱兎のごとく走り始めた。路地裏のどぶ板を踏みならし、長屋の木戸を抜け、走る、走る。気が張っているせいか、微熱があってふらついていたはずなのに、身体には何か不思議な力が漲っているようであった。
夜着姿の少女が真昼の往来を駆けてゆくのは異常な光景ともいえるが、少し距離を置いて、びしょ濡れのならず者が額から血を流しながら追いかけていくというのもまた、かなり非日常的だ。
大通りに出ると、行き交う人は何事かと皆、振り向いたり立ち止まったりして、この奇妙な追いかけっこを眺めている。中には無責任に走り去る小紅に声援を送る中年の男もいた。
「よっ、姉ちゃん。頑張れよ」
作品名:残り菊~小紅(おこう)と碧天~ 作家名:東 めぐみ