残り菊~小紅(おこう)と碧天~
栄佐は刀を鞘に納めると、何事もなかったかのように淡々と言った。
「綺麗な顔に傷がついちまった」
男にしては長くすんなりとした指先が小紅の頬をなぞる。
「まあ、この程度では跡までは残らないだろうが。もし、お前を少しでも傷つけていたら、俺はあいつを殺していただろう」
その口ぶりは平坦で何の感情も感じさせなかったけれど、それだけに、余計に何か怖ろしいものを感じさせた。例えるなら、深い沼底に住まう沼の神。沼を守るという神は黒々とした巨大な鯉の形をしているという。
ひとたび怒れば、その力は凄まじく、沼の水を溢れさせ、溢れ出した水はこの世のすべてを覆い尽くし、すべての生きとし生けるものを根絶やしにする。昔語りで語られる伝説上の話だ。
それはまさに、先刻、見たばかりの優美な銀に輝く鯉とは対照的だ。もしかしたら、栄佐はその美麗な面の中に相反する二つの顔を持っているのかもしれない。陰と陽。優しさと怒り。言葉には色々できるだろう。
でも、この男を私は愛してしまった。小紅は今や、はっきりと栄佐への恋心を自覚していた。武平を忘れたわけではないけれど、彼(か)のひとはもう、この世にはいない。でも、栄佐は今、手を伸ばせば届く場所にいる。
それが迷える自分への応えではいけないだろうか。
「この前の話、本気だぜ」
あまりにも唐突に切り出され、小紅は眼を瞠った。
「何のことか、さっぱり判らないって、可愛い顔に書いてあるな」
栄佐はくすくす笑う。
「本当にお前は解り易い性格っていうか、頭ン中で考えてることが全ー部、顔に出てしまうんだな」
小紅はむうと頬を膨らませる。
「どうせ私は単純馬鹿ですよ」
栄佐はまだ笑っている。その晴れやかな笑顔に小紅は少しだけ安堵する。もう、小紅のよく知っている彼に戻っている。一緒に流星を見たり、蕎麦を食べたりしたときの栄佐だ。
と、ふいに栄佐が顔を寄せた。
「そうだ、お前は本当に危なかしくって、見てられない。だから、俺がいつまでも側にいて守ってやらなくちゃ駄目だ。でも、そのまんまのお前を俺は好きになっちまった」
―愛してる。俺と一緒になっちゃくれねえか―
囁き声で伝えられた言葉に、小紅は固まった。
「―こんな私で良いの?」
小紅はわずかな躊躇いをかなぐり棄てた。やはり、栄佐に嫌われたとしても、伝えなければならないことは伝えなければ。
「あのね、私」
言いかけて言葉が途中でつかえてしまう。それでも、小さく息を吸い込んで続けた。
「準平さんの話に嘘はないわ。私、あの人と結婚するように決められていたの。でも、それがいやで逃げ出してきた。祝言も挙げていないのに、あの人が私を無理に自分のものに―」
「もう良い、何も言うな」
栄佐が憮然として話を遮る。
「でも」
「俺が良いと言っている」
それにしては、栄佐の機嫌は良くなさそうだ。やっぱり、他の男に汚された女はいやだから? 小紅の胸を哀しい想いが満たしてゆく。
だが、栄佐はまったく別のことを言った。
「それ以上聞くと、今度こそ、あの男を殺してしまうかもしれねえ。別にお前がどうのこうのっていう問題じゃねえんだ。誤解するな」
栄佐は前を向いてゆっくりと歩きつつ、ポツリと思い出したように呟いた。
「俺の方からも一つだけ、聴いておきたいことがある」
小紅がハッとして彼を見つめると、栄佐は前を向いたままで言った。
「いつかお前が着てた袢纏、あれは惚れた男の形見だと言ったな。その惚れてたとかいう男のことはもう、吹っ切れたのか?」
「正直、全部きれいに忘れられたわけではないと思うの。まだ、その男が亡くなって日も浅いし」
「それでも良いのか。お前は俺の気持ちを受け容れられるのか?」
依然として栄佐は小紅を見ようとしない。応えようによっては永遠に栄佐を失うことになるかもしれない。しかし、小紅は自らの気持ちを偽ることなく語った。それが自分を丸ごと好きだと言ってくれた男への精一杯の真心の示し方だと思ったからである。
「そのお人はもうどんなに懐かしんだところで、帰ってはこないもの。私が好きなのは、今、私の側にいてくれる栄佐さんだけ」
「そうか」
栄佐は頷き、改めて小紅を見た。
「俺はお前の側からいなくなったりしねえよ。一生、側にいてお前を守ってやる」
栄佐は腰をかがめると、小紅の頬を舌でつうーと舐め上げた。
「血が出ている」
小紅から離れても、まだ美味な果汁を吸うようにチロチロと舌を動かしている。元々がすごぶる美男だけに、赤い濡れた舌をうごめかしているその様はなかなかに凄艶な色気がある。
別に眼を背けるような場面ではないのに、小紅は何故か見ていられなくて、眼を逸らしてしまった。
小紅と並んで歩きながら、栄佐が言う。
「俺はそのままのお前が良いんだ」
と、通りの向こうから風車(かざぐるま)売りがやって来る。藁束に色とりどりの風車を挿し、春の風に風車がくるくると回っていた。その情景は一つの想い出を呼び起こす。
叔父に連れられていった随明寺の縁日。随明寺は黄檗宗の名刹で、開基は浄徳大和尚である。月初めに一度、市と呼ばれる縁日があり、広い境内にはあまたの露天商が建ち並ぶ。
あれは確か、小紅が七つくらいだったのか。右手に小紅の手を引いて、左手に準平の手を引いてた叔父は愉しげに笑っていた。あの日も風車売りが店を出していて、叔父は二人にそれぞれ風車を買ってくれた。
くるくる、くるくる。
風車が回る。
くるくる、くるくる。
想い出が回る。
風が吹いて、想い出をどこかにさらってゆく。
記憶の中の叔父の笑顔が霞んで遠くなってゆく。
―いつかお前もたった一本の縁の糸で繋がった運命の相手にめぐり逢うだろう。そのときは、その縁を大切にしなさい。
武平と想いを確かめ合った夜、叔父は最後まで小紅を抱こうとしなかった。そして、叔父は小紅に言ったのだ。
―最後にお前の顔をよく見せておくれ。
武平はまるで瞼に灼きつけるように小紅の顔を見つめていた。もしやあの時、叔父は自分の寿命がもう尽きようとしているのをどこかで悟っていたのかもしれない。
栄佐がその縁の相手なのかはまだ判らない。けれど、叔父と自分はそうではなかった。
「小紅、泣いてるのか?」
栄佐が気遣わしげに声をかけてくる。小紅は無理に笑顔を作った。
「俺、もしかして、強引すぎたか? お前の気持ちも確かめなかったから、それで」
どうやら性急に求婚(プロポーズ)したので泣かせてしまったと栄佐は誤解しているようだ。
小紅はううんと首を振る。
「幸せだから。生まれてから今まで生きてきて、いちばん幸せだと思ったから、泣けてきたの。栄佐さん、私はきっと、あなたに話さなければならないことがたくさんあると思うの」
栄佐が頷いた。
「それを言えば、俺だって同じだ。まだ、お前には話していないことはある。だが、小紅。俺はお前が自分から話そうと思うまでは無理に訊き出そうとは思わない。お前が話したいと思った時、話してくれれば良いんだ」
小紅は栄佐を見上げる。
「もし、ずっと話したくなかったら? 一生、話さなくて良いの」
作品名:残り菊~小紅(おこう)と碧天~ 作家名:東 めぐみ