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残り菊~小紅(おこう)と碧天~

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 これで良いのだろうか、良いはずがない。かといって、小紅はなすすべもなかった。市兵衛ほどの苦労人が言うのだから、間違いはない。たとえ、どのような手段を用いたとしても、人の心まで操れはしないのだ。
 自分はこれから、どうするべきなのだろう。武平を忘れるなんてできない。でも、栄佐のことも好き。二人の男を同時に好きになるなんて、自分はやはり淫らな娘なのだろうか。
 自分で自分の心が判らない。小紅が大きな息を吐いたその時。少し離れた後方から駕籠が近づいてくるのが判った。ここは天下の往来だ。幾ら人気のない外れとはいえ、ぼんやりと歩いていては他の人の迷惑になる。
 ぶつからないように脇によけた刹那、背後から誰かに抱きすくめられた。
「―っ」
 小紅は身を強ばらせた。
「どうだ、あの男とさんざんやりまくって、愉しませて貰ってるのか?」
 耳許を掠めた声に、身体中の肌が粟立つ。ふいに耳朶を生温かなものでねっとりと舐められ、嫌悪感に叫び出しそうになった。
「準平さん―」
 小紅は震えながら呼ぶ。
「お前のような薄汚い売女(ばいた)に名を呼ばれただけで、汚れちまうような気がするぜ」
 小紅の身体に回された手にますます力がこもる。
「いやっ。誰か、来て。助けてっ」
 小紅は出来る限りの抵抗を試みる。と、冷たいものが頬に当てられ、ヒヤリとしたものが頬だけでなく身体中を駆け抜けた。
「おっと、今日はもう容赦はしねえぞ。抵抗すれば、その綺麗で可愛らしい顔に余計な傷がつく。それでも良いのか?」
 更に耳をねぶられながら、生暖かい吐息とともに言葉が注ぎ込まれる。
「さんざん手間をかけさせやがってよう」
 準平がツと手を引くと、頬に当たった匕首が皮膚の上すれすれをなぞる。白い頬に小指の爪先ほどの赤い線が浮かび上がった。
「これくらいにしておいてやるよ。傷のついた女を抱く趣味はねえからな」
 準平は小紅を軽々と抱え上げた。愕いたことに、すぐ手前に駕籠が止まっている。駕籠かきの男二人のいでたちや背格好にもかすかに見憶えがあった。
 では、先刻の駕籠は準平が予め用意していたものだった? 
 京屋から目抜き通りを通れば良かったのだが、近道をしたのもまずかった。ここまでの道は昼間でもあまり人影のない小道だ。
 あまりの用意周到さに、小紅は腹が立つよりも空恐ろしくなった。まさか京屋を出たときからずっと付けられていた?
 栄佐の言ったとおりだった。もっと慎重に行動すべきだったのだ。栄佐が言ったではないか。けして一人で外に出てはいけないと。
 しかし、まさか準平が本当にここまでするとは思わなかったのは確かだ。
―栄佐さん。
 もう悔やんでも遅い。幾ら呼んでもこの心の声が栄佐に届くことはない。
「さあ、一緒に来るんだ。俺を裏切ったことを後悔させてやる。これからお前のその身体に俺のものだという証を刻みつけてやろう。昼も夜も抱いて、男なしではいられない身体にしてやるから、覚悟しろ」
 怖ろしくも残酷極まりない言葉に、気が遠くなる。いっそのこと、このまま死んだ方が楽なのではいかと思いさえする。
 準平は小紅を抱えたまま、止まっている駕籠に近づく。駕籠かきはすべて言い含められているようで、黙って駕籠に垂らした筵を上げた。
「良いか、妙な気を起こしたりしたら、あの男がどうなるか憶えておけ。幾ら腕が立つといっても、多勢に無勢で闘えば、あの男だってひとたまりもなかろうよ」
 小紅の出方次第では栄佐まで酷い目に遭わせると脅迫しているのだ。どこまで卑怯な男なのか。準平への気持ちはとうに冷めていたけれど、今はもう憎しみすら感じる。その澄まし返った顔に唾を吐いてやりたい。
 準平は小紅を駕籠に押し込めた。更に筵を降ろそうとしたときだった。
「待て」
 凜とした声が響き渡った。
「栄佐さん!」
 小紅は声の限りに呼ばわった。
「難波屋さん、俺ァ、先に言ったはずだぜ。今度、俺の女に手を出したら、ただじゃ済すませねえってな」
 栄佐が懐手をして歩いてくる。余裕を感じさせるように、ゆったりとした速度で徐々に準平に近づいてくる。
「小紅は私の女房だ」
 準平が吠えるようにまくしたてた。
「小紅は誰のものでもねえ。自分の意思で物を考え、行きてえところにも行くし、惚れた男のところへ行くさ。幾ら死ぬほど惚れてるからって、縛り付けてまで自分のものにしちまうのはただの男の我が儘(エゴ)っていうもんだよ、難波屋さん」
 知った顔で当然の理を説かれ、準平の顔が怒りでまだらに染まった。
「煩い! お前は板東碧天、うだつの上がらない大部屋役者だろうが。大根役者は引っ込んでろ」
「へえ、ご丁寧に俺の身許まで調べたのかい。確かに俺はうだつの上がらねえ大根だがな。それでも、貴様のような人でなしよりは、ちったア、マシだと思ってるぜ」
 栄佐は藍色の着流し姿だ。その姿に眼をとめた小紅はハッとした。栄佐の腰にあるのは刀だ!
 町人が刀を使うとは考えられない。しかし、栄佐は腰に佩いている刀をあっさりと抜いた。
 早春の陽光に、抜き身の刃がキラリと光った。やはり真剣は迫力が違う。準平の取り澄ました表情が一瞬、引きつった。
「大根役者の刀は大根しか切れねえ、なまくらかどうか、ちょいとお前さんで試してみようかねぇ」
 栄佐らしい人を食ったような物言いに、準平が一瞬、ギョッとした表情になるのがよく判った。
「くそぅ」
 準平も負けてはいない。衝撃と恐怖で蒼白になっているが、もう殆ど自棄になったのか。いきなり匕首を振りかざして栄佐に向かってくる。
「栄佐さん、危ないっ」
 小紅が叫ぶのとカァンと小気味の良い音がしたのはほぼ時を同じくしていた。あまりに素早い一瞬の光景は、夢を見ているかのようでもあった。栄佐は突進してきた準平の匕首を刀で見事に跳ね返したのだ。
 あたかも芝居の一幕を見るかのようなひと刹那、栄佐は華麗な剣さばきを見せつける。舞うがごとしのそれは、優美な鯉が銀色に輝きながら滝を上る姿にも似ていた。
 静寂の後、現に返った小紅が見たのは、ただ宙を飛んでゆく匕首であった。
 準平が悲鳴を上げながら、駆けてゆく。固唾を呑んでなりゆきを見守っていた駕籠かきたちも後を追うように走り去った。
 間違いなく、栄佐は刀を使える。しかも、小紅が見ても判るほど相当の使い手だ。
 だがと、当然の疑念も湧いてくる。何ゆえ、役者である彼が刀を持ち、自在に扱うほどの腕を持つのか。そこから導き出される結論はただ一つ、栄佐がただの町人ではないということ。
 では、栄佐は武士なのだろうか? 茫然としてまだ夢を見ているような気がする。小紅は自分の中で渦巻く幾つもの考えを上手く纏められないまま、ぼんやりとしたまなざしを栄佐に向けた。
「栄佐さん」
―あなたは一体、本当は何ものなの?
 しかし、その先に続くはずの問いかけは永遠に発せられることはなかった。
 問うのは簡単だ。しかし、続いて、彼から返ってくるであろう応えは予測がつかない。
 仮に小紅の思いも及ばないような応えが返ってきたとしたら、漸く見つけたばかりの恋をまた失ってしまったとしたら、自分は立ち直れるだろうか。
「危ねえところだったな」