残り菊~小紅(おこう)と碧天~
「ううん、違うの。さっきのように抱きしめられるのは怖いけど、いつもみたいに髪を撫でられるのは―最初は少し身構えてしまうけど、怖くはない」
「そうか」
栄佐の笑みが更に深くなり、小紅はいつものようにくしゃっと髪をかき回された。
「それから、これを」
栄佐が懐から取り出した縦長の財布を差し出す。逆さにして振ると、透き通った玉を幾つも連ねた数珠が出てきた。碧く透明な玉は貴石なのかもしれない。光にかざしてみると、深い海の底を流れる水のように煌めいた。
「これからはお守り代わりに持ってろ」
栄佐はその蒼色の石を連ねた数珠を小紅の小さな手に握らせた。
「必ずお前の身を守ってくれるはずだ」
「でも、きっと高いんでしょう?」
栄佐が小紅に微笑みかける。江戸の女たちを失神させるという碧天の魅力的な微笑は今、小紅一人に向けられていた。
「俺にとっちゃア、お前の方がこんなただの石よりよほど大切だ。だが、これは持ち主を災いから守ってくれるというから、今はお前が持っていた方が良い。俺の見たところ、あの難波屋は蛇のように執念深そうなヤツだ。用心するに越したことはない。お前もとんだ男に見込まれちまったもんだな」
栄佐は笑い、小紅の頭をまた撫でた。
「とにかく、当分は絶対に一人にならないこと。昼間でも一人で出かけちゃならねえぞ。もし、どこかに行くときは俺に言えば、ついていってやる。俺が留守のときは、ちゃんと戸締まりして誰が来ても開けるな」
いささか過保護過ぎるような気がして、小紅は首を振る。
「何もそこまでしなくても良いのに」
「良いから俺の言うことをきけ。判ったな? 絶対に一人で出かけちゃいけないぞ」
でも、栄佐にこうして心配されすぎるくらい心配されるのは迷惑どころか、凄く嬉しい。
小紅は栄佐の綺麗な顔を見上げ、微笑んで頷いた。と、何故か栄佐は紅くなり、そっぽを向いた。
「止せやい。あんまり可愛い顔で俺を見るな。俺だって一応、男なんだからな。あの野郎に啖呵切った手前、お前に手を出すなんてできねえんだからさ」
何やら意味不明の科白を並べ立てながら、栄佐はそそくさと逃げるように帰っていった。
いちばん幸せな日
小紅は京屋を出たときから、ずっと物想いに耽っていた。二月も終わりが近くなりつつある。江戸の梅の名所では今が満開で、大勢の梅見客で賑わっているという。
気随気儘なお嬢さま暮らしの頃は父と連れ立って梅見物にも行ったが、今はその日を暮らしてゆくのがやっとで、花見どころではない。
それでも陽射しが日毎に春めいてきて、厳しい寒さの中にも新しい季節が始まる予感めいたものを感じるようになっていた。今もこうして往来を歩いていると、大気にほんのりと梅の香が混じっているような気さえしてくる。
今日は晴れ着を二着仕上げて、京屋に届けてきた。どこかのお店の内儀とその娘が芝居見物に行くというので、それに着ていく晴れ着を頼まれた。いずれも上等な布地で、母親の方は萌葱色に梅の花が描かれている。娘の方は若い女らしく、薄紅色に少し早いが白い八重桜の模様だ。
縫いながら、こんな贅沢な晴れ着を纏う暮らしを以前の自分は当たり前だと思っていたことに今更ながらに気づいた。贅沢をしたいわけでもないし、戻りたいとも思わないけれど、何も知らない無垢な自分に帰りたいとは思った。
今日は何と勝手口だけでなく小座敷にまで通され、茶菓まで運ばれてきた。恐縮していると、お彩だけでなく当主の市兵衛まで現れた。
これが江戸でも指折りの?大商人(おおあきんど)?と呼ばれているお人なのだと思うと、十五歳の小紅は何やら、まともに顔を見てはいけない人のように思える。伏し目がちに端座していたら、存外に優しい声音で話しかけられた。
―お前さんが小紅さんかい。
温かな声に誘われるように顔を上げた先には、整った面立ちの男がいた。その物腰もいでたちも大店の主人にふさわしい貫禄を備えているが、到底、五十に手が届くようには見えず、若い頃からの美男ぶりは変わっていないのではと思われる。
―お前さんも色々と大変だったろう。実家の上州屋さんもあんなことになってしまったし、今度は身を寄せた難波屋さんまでが亡くなってしまったからね。
言葉だけではない労りのこもった慰めに、小紅はつい涙ぐんでしまった。
―家内から聞いているが、お針子としての腕もかなりのものだという。人柄もこれは申し分ないと扇屋さんの方も太鼓判を押して下さっている。どうだね、うちの上の倅が今年、十八になる。徳太郎といってまだまだ若いが、今年になって、この倅に身代を譲ってね、まだ私が元気な中に後見をしながら当主としての経験をさせたいと考えているんだ。若くとも京屋の主となったからには一日も早く嫁取りを気は急いているのだが、なかなか良い娘さんが見つからない。それで、お彩が小紅さんさえ良かったら、うちの嫁に来て欲しいとしきりにせがむものだから、今日はこうして逢ってみようと思ったのだが。
江戸でも屈指の大店の嫁に望まれるなんて、もうこの先、二度とはない幸運だとは判っていた。
しかし、この時、何故か小紅は市兵衛に?はい?とは言えなかった。せめて礼儀上でも?考えてみます?くらいは言うべきであったのだろうが、結局、彼女は辞退してしまった。
―どなたかお好きな方でもいらっしゃるの?
お彩が脇から問うのに、小紅は思わず頷いたのだ。
―それは残念だわね。お前さま、もう他に決めたお人がいるというのに、これ以上、無理強いはできないわ。
お彩が言うと、市兵衛も鷹揚に頷いた。
―そうだな、人の心はどれだけの金を積んでもけして動かせはしない。私たちは身をもって、それを学んだからなぁ。
微笑み交わす市兵衛とお彩の結婚は今も語りぐさになっているほど、熱烈な恋愛結婚だったという。この穏やかな夫婦にもかつては炎のように烈しく互いを求め合った若かりし頃があったのだ。
今日もまた信じられないほどの報酬を得て、小紅は京屋を辞した。なのに、心は少しも弾まない。
この頃、小紅は自分で自分の気持ちが判らなくなっていた。先刻、京屋の内儀に?好きな方は??と問われた時、何故か、真っ先に浮かんだのは武平ではなく、栄佐だったのである。
私は武平叔父さまが好きなのではなかったの? 小紅は内心、かなり狼狽えた。それとも、武平は既に亡くなった人だから、栄佐を思い出したのか?
そういえば、最近、武平の袢纏を着て大好きな叔父の想い出に浸る時間が減りつつある。そのことに気づいていないわけではなかった。
叔父が急死して、まだやっと一ヶ月、思えば四十九日の法要すら出席しなかった。あれほどの恩を受けているというのに、自分は何という恩知らずだろう。なのに、早々と他の男に心を移してしまった、自分はそんな変わり身の早い尻軽な娘なのか。
武平への気持ちが消えたわけではない。ただ、今の小紅は心の中に二人の男を住まわせている。もちろん武平と栄佐だ。そして、武平の占める場所は日毎に小さくなり、代わって栄佐の存在が信じられないほど大きくなっている。つまりは、そういうことだ。
作品名:残り菊~小紅(おこう)と碧天~ 作家名:東 めぐみ