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残り菊~小紅(おこう)と碧天~

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 それでも、小紅は彼が手を伸ばしてくる度に、一瞬、身構えてしまう。こんな有様で人並みの結婚ができるとは思えない。
 お彩は小紅の仕立てた着物を丁寧に検分し、その場で不相応とも思えるほどの仕立賃をくれた。そして、これからも京屋の仕事を任せても良いと約束してくれたのだ。
 そんな話をあらかた話すと、栄佐はいちいち真剣な顔で頷きつつ聞いてくれた。
「そいつァ、良かったじゃねえか。おめでとうよ」
 最後にまた手が伸びてきて、栄佐に髪をかき回された。そのときも一瞬、後ずさりそうになるのを必死で堪える。
「その調子で頑張れよ。多分、俺が立て役になるのと、お前が一人前になるのとじゃ、お前の方が夢を叶えるのは早いと思うぜ」
「あら、それは判らないでしょ」
 それは満更、お世辞ではない。栄佐にも言ったとおり、彼には生来の華がある。そういう華を持っている人はけして多くはない。ましてや、彼は大部屋役者でありながら、既に多くの個人的なファンまで獲得している。
 お琴も言っていたが、大部屋役者でありながら浮世絵にまでなって、それが飛ぶように売れているというのは極めて珍しい現象だ。
 彼なら、十分、主役級の役者として通用する。もっとも、役者は華と美貌だけではない、やはり大切なのは演技力だろう。小紅はまだ栄佐の舞台を見たことがない。ここまで人気があるのに立て役になれないのは演技力に問題があるのかもしれない―と、お琴の話を聞いたときは思ったのだが。
 演技の善し悪し、上手下手は小紅には判らない。でも、栄佐はいつか立て役になれると信じていた。彼なら、きっと夢を叶えられる。多分、彼の才能とは別のところで、自分はそう信じたいと思っているのだと彼女自身も判ってはいた。
「これはもう競争だな。どっちが早く夢を叶えるか」
 栄佐が愉しげに言った時、表の腰高が音を立てて開いた。二人が一斉にそちらを見る。
「―」 
 瞬間、小紅の顔が凍りついた。一方、傍らの栄佐は何が起きたか判らないようだ。
「これはこれは。亭主の許を逃げ出した女房がよその男と夫婦気取りでよろしくやってる。一体、どういうことなんだろうな」
 もう二度と顔も見たくない男―準平が三和土に立っていた。
 栄佐が小紅をちらりと見た。
―お前、結婚していたのか?
 その顔には書いてある。小紅は懸命に首を振った。
「迎えにきたぞ。小紅、一緒に帰るんだ」
 小紅は夢中で首を振り、栄佐の背後に隠れた。
 怖くて堪らない。あの雪の夜の記憶が一挙に甦ってきて、心が爆発しそうになる。
 もう、あんな辛くて恥ずかしい想いは二度としたくない。
 栄佐がおもむろに口を開いた。
「ちょっと待ってくれねえか。兄さんよ、どう見ても、この娘はあんたを怖がってるようにしか見えないんだがな。あんたは本当にこの娘の亭主なのかい」
「俺は難波屋の主人で準平だ。その娘は近々、俺の女房になるはずだった。祝言も間近だっていうのに、逃げ出しやがったんだ」
 憎々しげな口調に、背筋が寒くなる。このまま連れ帰られれば、どんな酷い目に遭うか知れたものではない。今度こそ、小紅はこの男に陵辱の限りを尽くされた挙げ句、処女を奪われるだろう。
 小紅は我知らず栄佐の手を掴んでいた。身体の震えが止まらない。栄佐が宥めるようにもう一方の手で小紅の手を軽く叩いた。
―大丈夫だ、安心しろ。俺がお前を守ってやる。
 その仕種から栄佐の無言の励ましが伝わってくるようで、小紅の身体の震えは漸く止まった。
「祝言がまだっていうんなら、まだ正式には女房じゃねえ。それで間違いはないな、小紅」
 背中に庇われたまま問いかけられ、小紅は何度も頷く。
「そんな屁理屈はこの際、どうでも良いんだよ。俺はこの女を連れて帰る。大人しく渡してくれれば、礼金はたっぷり弾むぜ」
 準平の言葉に、栄佐はハと呆れたような笑いを洩らした。
「見るからにいけ好かねえヤツだと思ったが、俺ァ、あんたがますます嫌いになった。女を金や力で思い通りにできると思うような男は、男の風上にも置けねえ。同じ男として、あんたのようにくず野郎がいるのが情けねえよ」
「小紅、俺と一緒に難波屋に帰ろう」
 準平が一歩踏み出しただけで、小紅は悲鳴を上げた。連れていかれたくないと栄佐の手を掴んだ彼女の手に力がこもった。
「栄佐さん、私、怖い」
「一体、何をどうすれば、ここまで女一人を怖がらせられるんだろうな。手前、小紅に何をしやがった?」
 栄佐はもう一度、小紅を安心させるように笑いかけてた。ユラリと立ち上がったかと思うと、いきなり栄佐の拳が準平の顎に激突した。
「小紅は俺の女だ。いずれ女房にしても良いと思ってる。今後、薄汚ねぇ手で少しでも触れやがったら、骨一本折るだけじゃ済まねえぜ。難波屋の旦那」
 情けなくも準平はその一撃だけで呆気なく、後方に吹っ飛んだ。
「あ、顎の骨が」
 準平の顎は見る間に紫に変色して腫れていた。大の男が半泣きになりながら、準平は這々の体で退散していった。
「骨が折れたのかしら」
 大嫌いな男ではあるが、いささか、やり過ぎのような気がしないでもない。小紅が不安になって呟くと、栄佐が顔を覗き込んだ。
「安心しな。骨まで折れちゃいねえよ。何だ、あの野郎が心配なのか?」
「そういうわけじゃないけど」
 小紅はうつむいた。
「準平さんは血のつながりはないけど、従弟なの」
 栄佐は続けた。
「お前が逃げ出してきたっていうのは難波屋だったんだな」
 コクリと頷く。小紅は難波屋の先代武平が自分の父の弟であり叔父であること、準平は武平の女房の連れ子で、叔父の実子ではないことだけを簡単に話した。
 ふいに小紅は栄佐の大きな胸に抱きしめられていた。
「栄佐さん?」
 小紅は狼狽え、逃れようと暴れた。だが、栄佐は幼子をあやすように、小紅の背を優しく撫でた。
「何があったかは訊かねえ。あいつを見たときのお前の怯え様、今の状態を見れば、どんな目に遭ったかは察しはつく」
「栄佐さん、私、まだ―、駄目なの。男の人に触れられるのが怖くて堪らないの。後生だから、放して」
 小紅が震えながら訴えると、栄佐はすぐに手を放してくれた。
「あの野郎、よほど酷いことをしたんだな。あん畜生、今度顔を見たら、叩きのめしてやる」
 物騒な科白を地を這うような声で言うものだから、迫力がありすぎる。
「お前が最初に逢ったときから、男に怯えてるのは知ってたよ」
 ややあって、栄佐がポツリと言った。
 小紅は大きな黒い瞳を見開いた。
「栄佐さん、気づいてたの?」
 栄佐は笑った。
「あたぼうよ。それしきのこと気づかないとでも思ったか? それから後も俺が触れようとする度に、お前はびくびくと怯えてた。もっとも、それに気づいていながら、お前に触れるのを止めようとしなかった俺にも問題はあるが」
 栄佐が小紅を見た。
「もう頭を撫でるのも止めた方が良いな」
 その時、小紅は自分でも知らない間に叫んでいた。
「そんなことない!」
 小紅の剣幕に栄佐が眼を丸くしている。
「栄佐さんなら、別に怖くなんかないわ」
 栄佐の眼がふっと細められた。限りなく優しいまなざしで見つめられ、小紅は頬が熱くなる。
「無理することはねえんだよ」