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残り菊~小紅(おこう)と碧天~

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 二十三になる男が少年のように眼を輝かせて語る姿も悪くはない。栄佐の顔は舞台化粧なんかしなくても十分美しい。それに、小紅は女のように白粉や紅を塗った栄佐よりも、やはり男らしい素顔の方が良いと思う。
「小紅、俺ァ、いつか立て役になるぜ。そのときはお前を招待してやるから、一番前の席で俺の晴れ舞台を見てくれよな」
「もちろんよ。愉しみにしてる」
 小紅は頷き、微笑んだ。
「栄佐さんなら、きっと立て役にもなれるわよ。初めてあなたの浮世絵を見たときに思ったの。何ていうか、あなたには華がある。生まれながらの役者(スター)だけが持つ華っていうのか、存在感っていうのかしら。現に、あなたの熱狂的な崇拝者もいるって聞いたわ。大モテなんですってね」
 栄佐は大真面目な顔で嘆息する。
「俺は大勢のどうでも良い女よりも、たった一人の惚れた女にモテる方が良いね」
「あら、支持者(ファン)は大切にしなきゃ」
 小紅もまた真剣な顔で言い、笑った。
「それに、あなたって、並の女よりも器量良しなんだもの。私なんか正真正銘の女だっていうのに、男のあなたより見劣りするんだもの、嫌になっちゃう」
 これはほぼ本音である。栄佐は大仰に手を振った。
「冗談だろ。お前ほど綺麗な娘はそうそう江戸にもいやしねえぞ。お前が醜女(ブス)だっていうのなら、世の大概の女は皆、醜女になっちまうだろ。もっと自分に自信を持てよ」
「慰めでも嬉しいわ」
「あー。まるで俺の言うことを信じちゃいねえな」
 栄佐は不満そうだったが、ふと思いついたように言った。
「おお、そうだそうだ。こいつをお前に教えてやっとかないと。来月早々、早春顔見せ興業をやるんだよ。その舞台で俺、初めて役を貰ったんだ。科白もなしの役だが、いちばん後ろのその他大勢じゃない。生まれて初めてのちゃんとした役付きなんだぜ」
 秀でた額、真っすぐな鼻梁、どこまでも美しい横顔を見ているだけで、小紅の胸はときめいた。男が生き生きと夢を語る姿は見ていて、気持ちが良い。
「今まではしがねえその他大勢の一人だったが、今度は違う。この役を足がかりに、もっと上に、いずれは立て役までやれるようになれたらな」
 栄佐の漆黒の瞳は、今夜の星で彩られた空のように輝いていた。
 二人の間を冬の夜風が通り過ぎる。小紅がクシュンと小さなくしゃみをし、栄佐は今更ながらに我に返ったようだ。
「済まねえ。夜分に押しかけて、自分勝手な話ばかりべらべら喋ってよ。お前に風邪でも引かせちまったら、大変だ。さ、もう家に戻りな」
 栄佐こと碧天は小紅の頭に手を置くと、くしゃっとかき回す。
「戸締まりには気を付けろよ。俺以外の男が来ても、開けたりしちゃならねえぞ」
「おやすみなさい」
「おやすみ」
 小紅は栄佐に笑いかけると、隣の自分の住まいへと引き返した。
 どれくらいの間、話していたのだろう。焼き芋は美味しかった。でも、それだけではなかった。これまで知らなかった栄佐について、色々と知ることができた。
 それにしても、栄佐があの人気女形板東碧天だったなんて。いまだに、まだ夢を見ているようで信じられない。
 でも、栄佐のような美男はそうそういないから、彼が碧天だと言われても納得はいく。
 もっともっと栄佐のことを知りたいと思うけれど、彼自身はあまり私生活については語らなかったし、多分、触れて欲しくはないのだろう。
 恋人なんかはいるのかしら。ふと考えた自分に自嘲的な笑みを浮かべる。そんなことを知ったって、どうにもならないのに。
 小紅はその夜はもう仕立物は止めて、今度こそ布団に入った。どういうわけか、今度はすぐに深い眠りに落ちた。冷えていた身体も栄佐のくれた焼き芋のお陰でほかほかと芯から温まっているような気がした。

 小紅は出来上がったばかりの蕎麦を丼に入れ、盆に乗せた。
「どうぞ、召し上がれ」
「おう、蕎麦か、こいつはありがてぇ」
 栄佐は心底から嬉しげな声を上げた。
 栄佐が板東碧天だという話を聞いてから十日ほどが過ぎている。
 その日、栄佐は芝居小屋の方は休みだということで、長屋にいた。月の半分くらいは舞台に出て、半分は長屋で針医の仕事をしている。舞台がある日は両国広小路の芝居小屋に詰めていて、留守なのだ。
「こんなものしかできなくて」
 丼の上には厚揚げが一枚、出汁をたっぷりと滲み込ませて煮たものだ。
「いやいや、貧乏役者にはご馳走だよ。うん、うめぇ」
 早くも汁を啜りだした彼は、白い湯気の立つ蕎麦を見て幸せそうな表情だ。
「折角のお休みなのに、申し訳ないわね」
「何の何の。男っつうのは美人に頼られて悪い気はしないんだから、気にするなって」
 何もない長屋暮らしではあるが、小紅は少しずつ身の回りの品も揃えていこうと思っている。もちろん、家具など買うのはまだまだ先の話、とりあえず古い神棚を直して、使えるようにしたかった。
 しかし、手の届かない高い場所にあるので、直そうにも直せず難儀していた。そこに折良く栄佐が現れ、?そんなことなら任せろ?と気持ち良く引き受けてくれたというわけだ。
 小紅では届かなかった神棚も、長身の栄佐にかかれば楽々手が届く。四半刻もかからずに栄佐は神棚を直してくれたばかりか、汚れも綺麗に拭き取って使えるようにしてくれた。
 小紅も栄佐と向かい合って蕎麦を食べる。
「ね、この間の夢の話。いつか立て役になりたいって話してたでしょう」
「おう、確かにそんな話をしたっけな」
「私にも夢があるのよ」
 栄佐は既に丼を空にしている。
「あー、美味かった。ご馳走さん」
 言ってから、小紅をまじまじと見つめた。
「お前にも夢があるのか?」
「私、いっぱしのお針子になりたいのよ」
 そこで小紅は先日、出来上がったばかりの着物を呉服問屋に届けたのだと話し始めた。お紀代の父の知り合いだというのは日本橋の京屋である。京屋といえば、江戸でも指折りの老舗であり大店だ。しかも主の市兵衛は?氷?と異名を取るほどの辣腕商人だ。
 昨日、小紅は縫い上げた着物を持ち、京屋を訪ねた。御用聞きや客でない者は勝手口から出入りするのが常識である。勝手口で訪(おとな)いを告げると女中が出てきて、市兵衛の女房お彩(さい)に取り次いでくれた。
 お彩は四十手前の品の良い内儀であった。美貌で知られる市兵衛の妻にふさわしく、ついぞ見かけないほどの美人である。小紅は市兵衛を知らないけれど、美しいと評判の市兵衛と並べば似合いの夫婦だろう。
 市兵衛は親戚中の反対を押し切ってまで、お彩を後妻に迎えたという。お彩は小紅の母親の年齢だが、もう四十近いとは信じられないくらい若くて綺麗だ。
 お互いに愛し愛され、結ばれる。そこまで市兵衛ほどの大人物に求められたお彩を羨ましいとは思うけれど、小紅は実のところ、そんな女の幸せは既に諦めていた。あの夜、小紅は準平に最後まで奪われたわけではなく、まだ処女(おとめ)のままだ。しかし、あの出来事はいまだに小紅の心身に深い傷跡を残し、著しい男性不信を招いている。
 栄佐はどうやら小紅の髪を撫でるのが好きなようで、何かあれば、すぐに髪をくしゃくしゃとかき回す。その様子からは男女の性的な匂いはなく、むしろ兄が妹を構うような親密な雰囲気だ。