残り菊~小紅(おこう)と碧天~
お紀代は小紅よりは二つ上の十七歳、扇屋という名の知れた紅白粉問屋の娘だ。今年の夏には蝋燭問屋の跡取りに嫁ぐことが決まっている。丸顔のふっくらとした頬にまだ幼さの残る可愛らしい顔立ちで、気性も見た目と同様、穏やかである。
教室に通い出したのもほぼ同時期ということもあるかもしれないが、何故か妙に気が合った。小紅が肌襦袢一枚きりで深夜、飛び込んできたときには、流石にお紀代も愕いた様子だった。
しかも、そのときの格好ときたら、胸許はしどけなく緩んでいるし、ひとめで何をされそうになったかが判るほど酷いものだったらしい。その夜は何も訊かずに泊めてくれ、難波屋での経緯をあらかた話したのは翌朝になってからだ。
お紀代は我が事のように心配してくれて、両親に頼み込んで小紅をしばらく居候させてくれることになった。小紅は無一文で出てきた身である。せめて何か女中仕事でもさせて欲しいと申し出ると、お紀代の母は?とんでもない?と笑った。
―困ったときは相身互い。うちのお紀代だって、いつか誰かのお世話になるときがあるかもしれないんだから、小紅ちゃんは気にせずに自分の家にいると思っておくれ。
労りに満ちた心からの言葉に、小紅は涙が出るほど嬉しかった。それからひと月、お紀代の家で厄介になりながら、その間に江戸の町を住み家や職探しに奔走した。
この裏店は江戸にはどこにでも見かける粗末な棟割り長屋だが、その中でも立地条件はあまり良くない方だ。陽当たりは悪いし、江戸の外れで中心部からは遠い。しかし、その分、店賃が信じられないほど安く、小紅は何軒かの似たような長屋を見て回って、即決した。
仕事はお紀代の父の知り合いに呉服太物問屋を営んでいる男がいるというので、口をきいて貰って仕立物の内職を定期的に回してくれることになった。とはいえ、まずは最初の仕事を見て貰い、その上で取引を続けるかどうかを決めることになる。つまり、お針子としての腕を試されるのだ。
今はその仕立物に取りかかったばかりだ。お紀代の母は小紅が裏店に移り住むときは名残を惜しんでくれた。お紀代には四つ下の沙吉という弟がいる。お紀代の母は
―この一ヶ月、小紅ちゃんを見ていたら、ずっと家にいて貰っても良いと思うようになってねぇ。小紅ちゃんさえ良かったら、うちの沙吉の嫁になっておくれでないかい。
沙吉は小紅より二つ下の十三、まだまだ虫を追いかけ回して遊びたい年頃の子どもだ。それでも二、三年内には似合いになるだろう。今すぐでなくとも、いずれ二人を娶せて扇屋を託したいとまで言ってくれた。
―夏にはお紀代が嫁いで淋しくなるし、気心の知れたお嬢さんがずっといてくれたら、願ったり叶ったりなんだけど。
ありがたい申し出だといえた。だが、小紅は丁重に辞退した。まだ十五歳の小紅には、嫁ぐだとかは遠い未来の話のように思える。
もちろん、早婚の当時、十五という年齢はけして嫁ぐのに早すぎはしない。その年で既に母親になっている娘も少なくはないのだ。そんな同年齢の娘たちに比べれば、小紅は我が儘なのかもしれない。
それに、難波屋で準平に陵辱されそうになったことは、小紅に大きな傷を残した。あれ以来、若い男に近づくだけで恐怖心を感じるようになり、触れられでもしようものなら、悲鳴を上げるほどの恐慌状態に陥ってしまう。
元々、特に男の人が嫌いというわけではなかったのに、こんな状態では結婚なんてできるはずがない。もしかしたら一生、治らない心の傷を負ってしまったのかもしれないと思うと、哀しかった。
が、あの夜、何とか逃げおおせられたことは大きな救いであった。あのまま準平に汚されていたかと考えただけで、怖ろしさに叫び出しそうになる。最悪の不幸は回避できたのだから、それで良かったのだ。
お紀代の母は餞別だといって纏まった金子を持たせてくれた。もちろん小紅は要らないと固辞したけれど、
―お金はどれだけあっても邪魔になりはしないよ。
と半ば押しつけられた形で頂くことになった。
お紀代やその父母には本当にどう感謝して良いか判らない。いつかまた何らかの形で恩返しができればと考えている。
小紅はとうとう布団から這い出た。夜着の上に袢纏を羽織る。これは亡き武平の形見だ。いまだにこれを着ると、武平の匂いがする。まるで武平の腕に抱かれているみたいに心が落ち着くのだ。
しばらく武平の想い出に浸ってから、小紅は仕立物の続きを始めた。とにかく、これをきちんと仕上げて最初の関門を突破しなければならない。何せ、今後の生活の糧がかっているのだから。
気合いを入れて針を動かし始めてしばらく経った頃、表の腰高をほとほとと叩く音がした。こんな夜に来客なんて、と、警戒心がむくむくと湧いてくる。
―まさか、準平さんが?
小紅は真っ青になり、ぶるっと身を震わせた。あの夜の恐怖がまざまざと甦る。
と、聞き憶えのあるまったく別の声がかかった。
「おい、小紅。もう寝ちまったのか?」
この声は。小紅は慌てて三和土に降り、心張り棒を外した。腰高障子を細く開けると、向こうに立っているのは案の定、栄佐であった。
「栄佐さん」
「ガキじゃあるめぇし、まさか布団に潜り込んでいたなんて、言わねぇでくれよ」
栄佐は例の人をからかうような口調で言う。
「だって、引っ越しとか色々あったから」
小紅は言い訳にもならない言い訳をし、栄佐が続けた。
「ちょっと今、良いか?」
小紅は少し躊躇った。栄佐が準平のように女を慰みものにするような男だとは思わないけれど、やはり、時間が時間である。一応、お互いに独り身だし、こんな夜分に男を家に入れて良いものかどうか思案したのだ。
小紅の心を見抜いたように、栄佐は肩を竦めた。
「大丈夫だよ、別にお前をどうこうしようとか妙な下心があって来たわけじゃねえから」
小紅は端からお見通しだよと言われ、頬を紅くした。何だか自分が自意識過剰のように思えたからだ。
「ごめんなさい。別にそういうわけじゃ」
「まっ、そんなこたァ、どうでも良いさ。じゃ、邪魔するぜ」
栄佐は自分で戸を開け、中に入ってくると、早速上がり込んだ。同じ長屋なので作りも同じだろうに、物珍しげに室内を見ている。
「若ぇ娘の住まいにしたら、何か殺風景だな」
箪笥や鏡台、家具らしきものはまったくない。小紅は笑った。
「無一文で家を出たんだもの。そんな贅沢はできないわ」
その言葉に、栄佐が小首を傾げた。
「お前、どう見たって良いところのお嬢さんだろうのに、一体、何があったんだ?」
「色々と訳ありの身なの。話し出すと長くなるし、今はまだ誰にも話したくないから」
「そっか」
栄佐はあっさりと引っ込んだ。
「おお、忘れてた。冷めない中に食おうぜ」
栄佐は小脇に抱えていた紙包みを眼の前に置いた。
「これはなに?」
「引っ越し祝いの礼だよ。ここの長屋の入り口に木戸番の爺さんが住んでるだろ。あそこで色んなものを売ってるんだが、この時季は焼き芋も売ってるんだ」
「頂いても良いの?」
「だから、手ぬぐいの礼だよ、礼」
栄佐が先に紙包みを開いて食べ始めたので、小紅も遠慮なく貰うことにした。
作品名:残り菊~小紅(おこう)と碧天~ 作家名:東 めぐみ