残り菊~小紅(おこう)と碧天~
迷惑です、と言って胸を反らした小紅は、おやと思った。神妙な顔をしているはずの栄佐が肩を震わせている。どうやら、笑いを必死で堪えているようだ。
私、何か変なことを言ったかしら。
小紅が首をひねっていると、栄佐の後ろから女が出てきた。緋色の肌襦袢をしどけなく纏い、帯は一応結んでいるものの、ゆるゆるで今にも解いて下さい―もとい、解けそうな結び方だ。
年の頃は二十七、八、渋皮の?けた良い女で、いかにも男好きしそうな色っぽい中年増である。大きくひらいた胸許からは女が動く度に豊満な胸乳が見え隠れして、女の小紅でも思わずドキリとしてしまう。仕種の一つ一つ、視線を動かすのでさえ色香を振りまいているのではと思うほど仇っぽい。
「お前さん、いきなり他人の家を訪ねてきて、その言い様はないだろ。お前さんは、あたしたちが何をしてるかを見たわけじゃない。それなのに、栄さんを一方的に責めるのなんて、少し失礼じゃないのかい。それくらいのことも判らないんて、見たところ、身体の方は一人前に育ってるようだけど、おつむの方はまだ子どもなのかい」
「おい、止せよ、美桜(みお)。そこまで言うこたァ、ねえだろ」
栄佐が止めのもきかず、美桜と呼ばれた女は斜交いに小紅を眺めた。まるで値踏みされるような嫌な視線だ。
「私の言っていることが間違っているというんですか?」
「もし間違ってたら、どうする? 見たところ、何でこんなボロ長屋に住むようになったのか、知りたいくらいのお嬢さまみたいだけど。仕事がなくて困っているのなら、あたしが良い仕事を紹介してやろうか? そうだね、あんたの言うことが正しければ、あたしがここで素っ裸になって踊ってやっても良い。でも、もし、あんたが間違っていたら、あんた、あたしの見世で働きな」
「おい、美桜。良い加減にしろ。この娘はどう見たって、素人だぞ。そんな初(うぶ)な娘に客を取れっていうのか?」
美桜が栄佐をくるりと振り向いた。
「初だろうが何だろうが、女には変わりないだろ。それに、顔も可愛いし、良い身体をしてる。いかにも清純そうに見えて、嫌らしい身体をしている、こういう若い娘を男は好むもんだよ」
「美桜!」
栄佐が怒鳴った。人が変わったかのような冷たい表情にも、美桜は怯まない。
「小紅、俺は針灸をして生業(なりわい)を立ててる。たった今、お前が来るまでもこの美桜がぎっくり腰になったっていうんで、治療してたところだったのさ。こいつ、いつも治療の途中で俺が身体に触れる度に妙な声出しやがるから、俺の方も恥ずかしくて仕方ないんだ。お前が聞いた声ってえのは、大方は、そのときの声だろう」
栄佐が淡々と言った。
「美桜の言い方は酷かったが、お前の方にも落ち度がねえとは言えないぜ。他人を非難するときはまず、ちゃんとした証拠を掴んでから非難するもんだ。ただ声を聞いただけで、俺と美桜がしっぽりやってたなんて言われりゃ、美桜が怒るのも無理はねえんだぞ」
小紅は声もなかった。あまりの恥ずかしさと申し訳なさに顔は紅くなっている。
「ごめんなさい。本当にごめんなさい。私ったら、失礼なことを。美桜さん、ご気分を害されるようなことを申し上げて、失礼しました」
ペコリと頭を下げると、美桜は毒気を抜かれたようにポカンとしていたが、ややあって、弾けるように笑い出した。
「これまた、怒るのも一直線なら、謝るのも素早いね。良いよ、そこまで素直になられちゃ、あたしとしちゃ、これ以上、しつこくあんたを責める気はないから。それにしても、ご気分を害されるとか、申し上げてだとか、あんた、一体、どこのお嬢さまなんだえ。おとっつぁんと喧嘩して家をおん出てきたのかい」
美桜は小紅に片目を瞑って見せた。
「お足に困っているのなら、うちの見世においで。あたしゃア、あんたが気に入った。あんたなら、深川でいちばんの稼ぎ頭になれる。さっき言ったのは嘘じゃないよ。男は皆、助平な生き物だから、あんたのように何も知らなさそうな初な娘を抱きたがるのさ。あんた、見たところ、発育も良さそうだし」
「美桜っ」
栄佐が怒鳴ると、美桜は?おお、怖?と肩を竦めた。
「この男の見てくれに騙されちゃ、いけないよ。こんな風に、いかにも善人ぶってるけど、この栄さんほど女に手の早い男はいないんだから。どうやら栄さんはあんたのことを気に入ったようだし、せいぜい気をつけな。夜中は夜這いにこられないように、戸締まりはしっかりとね」
美桜は言いたい放題言うと、?じゃ、あたしはこれで帰るわ?と、あっさりと帰っていいった。
「まったく、何てヤツだろうな」
栄佐は呆れたように首を振り、小紅を見た。
「マ、ああいう女だけど、根は悪いヤツじゃない。美桜は深川の岡場所で小さな見世をやってる。そこの女将なんだ」
「栄佐さんはお医者さまなんですか?」
小紅が訊くと、彼は呵々と笑った。
「そんなごたいそうな代物じゃねえよ」
しかし、当時、針灸師は針医とも呼ばれ、医者の一種と見なされていた。もちろん、普通の医者よりは格下の扱いは受けたが。それに、ぎっくり腰を軽く見てはいけない。父の仁助が一度なったのを見たことがあるが、それはもう酷い苦しみ様だった。
評判の良い外科医にわざわざ大枚払って来て貰ったのに、膏薬をくれただけでたいした治療もせず、少しも良くならなかった。
が、美桜の帰り際の歩きっぷりは到底、ぎっくり腰にかかった人とは思えないほど良かったのだ。栄佐の針医としての腕が滅法良いことの証になるはずだ。
「まあ、もう一つの本業が本業なんで、何か多少儲かる仕事をしねえと、こちとら干上がってしまうんでね」
「本業って、針医が本業じゃないんですか?」
意外な言葉に、小紅は眼をまたたかせた。
栄佐が破顔する。
「そういうこと。まっ、おいおい判るよ」
栄佐は意味ありげに言うと、小紅が渡した手ぬぐいを持ち上げた。
「わざわざの挨拶、ありがとうよ。これからは隣同士だ。よろしくな」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
小紅が頭を下げるのに、栄佐はプッと吹き出した。
「美桜の言ってたとおりだな。どこの大店のお嬢さまなのか」
栄佐がふいに近寄ると、小紅の髪をくしゃっと撫でた。髪に触れられ、一瞬、身を退きそうになったが、その前に栄佐は小紅から離れていた。
「何かなぁ、守ってやらなきゃいけねえ妹ができた気分だ」
栄佐の爽やかな笑顔が眩しくて、小紅は見ていられなかった―とは口が裂けても言えない。
その夜、小紅は早々と布団に入ったものの、なかなか眠りは訪れなかった。薄い夜具は古道具屋で買ったものだが、なかなか一月の寒さを凌ぐには物足りない。いっかな眠りが訪れなかったのはむろんそのせいもあったろうが、いちばんの原因はここのところの環境の急激な変化だとは自分でも判っていた。
難波屋を出てから、小紅はひとまず友達の家に身を寄せた。思案してみても、頼れる親戚などない。裁縫の稽古で同じお師匠さんに通っている弟子仲間がいる。中でもいっとう親しくしていたお紀代の家にしばらく厄介になることにしたのである。
作品名:残り菊~小紅(おこう)と碧天~ 作家名:東 めぐみ