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残り菊~小紅(おこう)と碧天~

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 あれは準平の声。相当に激怒しているらしく、声はこれまで聞いたこともないほどに凍てついていた。
 今度捕まってしまったら、どんな目に遭わされるか判らない。底のない恐怖が背筋を這い上ってきて、小紅はか細い身体を震わせる。
 わめき散らす準平の声に混じって、番頭や手代の声も聞こえた。いけない、このままでは捕まってしまう。
 小紅は小さく息を吸い込むと、自らを叱咤して寒椿の茂みと茂みの間を通り抜けた。多少緑の葉が顔や手足に擦り傷を作ったが、準平から与えられた数々の陵辱を思えば、こんなのはたいしたことはない。
 何とか茂みを抜けると、お琴の言っていたように眼前に築地塀があり、そこだけぽっかりと穴が空いていた。
 母のように優しくしてくれた女だった。短い間だったけれど、お琴がいてくれたから、ここでの日々も何とか堪えられたのだ。
 自分を逃すのに手を貸したことを準平に知られていなければ良いが。自分のせいで優しいお琴が酷い目に遭うのは辛かった。
―ありがとう、お琴さん。
 小紅は心で礼を言い、思い切ってその穴に身を滑らせた。
 その小さな穴は難波屋から外の世界へと続いている。ここから小紅の新しい人生が始まるのだ。
 いつしか十六夜の月は雲に閉ざされ、雪は本降りになっていた。幸いなことに、降り止まぬ雪が小紅の小さな足跡をも消してくれた。辺りはひっそりと静まり返り、小紅が消えた壁の穴は椿の茂みがそこにまるで何もないかのように隠している―。
 
 流星

 小紅はコホンとわざとらしく咳払いをした。まったく、こんな昼日中から、女を長屋に引っ張り込んでいちゃつくなんて、良い度胸している。
 しかも、隣とは薄い壁一つ隔てているだけ、時には穴さえ空いている安普請、かつ老朽化著しいオンボロ長屋に暮らす身としちゃア、睦言(女の耳障りな喘ぎ声)がまともに聞こえてきて、あたかも本物の濡れ場を見させられているような気分になる。
 その情景が見えない分、余計にあれこれと淫らなことを妄想してしまい、居たたまれない。
「あの―」
 小紅はもう一度、更に大きな咳払いをした。良い加減に気づきなさいよね。心で悪態をつきまくり、更に咳払い。
 それでもなお見事なまでに無視され、漸く眼の前の腰高障子が開いたのは五度目の咳払いをした直後だった。
「悪ィ、待たせたね」
 いきなりの科白に、小紅は度肝を抜かれた。これから逢い引きしようかという待ち合わせ中の男女のような口ぶりだ。
「あのですね。私、今度、隣に引っ越してきた者ですが、真っ昼間から、そういうことは止めて欲しいんですけど。何ていうか、まもとに声とか聞こえてきて、はっきり言って迷惑です」
 きっぱり言ってやると、相手は?ああ?と頷いた。何が?ああ?だ、格好つけてさ。こういうスカしたヤツほど、助平なんだから。またしても悪態をつき、小紅は顔を上げた。
 声の調子から若い男と見た。相手は小柄な小紅では伸び上がらなければならないほど上背がある。なので、男の顔をまともに見ようとすれば、どうしても見上げる体勢になってしまうのだ。
 その男の貌が眼に入った瞬間、小紅はホワンと大きな眼を見開いてしまった。
スと切れ上がった形の良い瞳は漆黒で、幾つもの夜を閉じ込めたよう、眉はほどよく細く、鼻筋はすっきり通って唇は男の癖に何故か小さく濡れたように紅く。
 その黒い瞳を覗き込めば、魂ごと奥底に絡め取られて虜になってしまいそうで。
「で、用件ってのは何?」
「えっ」
 小紅は面食らった。慌てて我に返り、また、わざとらしい咳払いをする。まさか、女にも滅多といないほどの美貌に見惚れていたとは言えない。
「お前、風邪引いてるの?」
「ええっ」
 二度愕く番である。
「だって、さっきから咳払いばかりしてるからさ」
 愉快そうに言うのは、咳払いがわざとだと見抜いているからだろう。ええい、悔しい。こんな助平な気障(きざ)男に良いようにからかわれるなんて。
「そういうことって、どんなこと? もっと具体的に言ってくれないと判らないんだけど。声とか聞こえてくるって言われてもねぇ」
 ニヤニヤ笑いがこの上なく癪に障る。
 こいつ、判って言ってるな。小紅はムッとして唇を引き結んだ。
「私がわざわざ言わなくても、あなたの方がよおくご存じでしょ。その胸に手を当ててよくよく思い出して下さい」
「うん? 胸に手を当てろって」
 いきなり男の手が伸びてきて、胸許を触ろうとするので、小紅は悲鳴を上げた。
「いやっ」
 実際に男は胸に触るどころか掠めることもなかったのだけれど、小紅は過度の反応を示していることに自分では気づかない。
 男は小紅を見て、訝しげに形の良い眉を寄せている。
「何もそんなに怯えなくても良いだろ。冗談だよ、冗談」
 それでもまだ蒼白になって小刻みに身体を震わせる小紅を男は小首を傾げて見つめた。
「あんた、男に手籠めにされそうになったとか、そんな経験があるのか?」
 その問いに、小紅は初めて現(うつつ)に戻った。
「そんなこと、あるわけないでしょう。失礼な人ね」
 が、男の果てのない澄んだ瞳にじいっと見つめられていると、何かすべてを見透かされそうである。小紅は慌てて男の綺麗な顔から眼を逸らす。
「マ、人には誰にも踏み込まれたくない秘密の一つや二つはあるものだからな」
 男はそれ以上詮索する気はないらしく、肩を竦めた。
「で、あんたはわざわざ、その苦情とやらを俺に言いに来たの?」
「まあ、それだけではないんですけどね。私、昨日から、こちらの裏店に引っ越してきた小紅と申します。これはほんのご挨拶代わりに」
 小紅は手にした十数本めの手ぬぐいを男に差し出した。今はこの引っ越しの挨拶を配りながら、長屋の住人たちの住まいを回っている最中なのである。挨拶して回るのもここが最後だ。
「あ、そう。ところで、おこうって、どう書くの? 平仮名で良いのかな」
 そんなことを聞かれるのは珍しい。しかもここは字の読み書きはできる人は少ないその日暮らしの貧しい人々が暮らす裏店である。こんな場所で問われるとは考えてもいなかった。
「名前、ですか」
 小紅は戸惑いながらも、?小紅?だと説明する。
「へえ、小紅ねぇ。なかなか粋な名前だね。小紅姐(ねえ)さん」
 自分よりは確実に年上であろう男に姐さんと呼ばれ、小紅は我になく頬がカッと熱くなるのを憶えた。
「俺は栄佐(えいざ)。よろしくな」
 そのときだった。栄佐の背後から、女のけだるい声が聞こえてくる。
「栄さん、誰なのよぅ」
 鼻に掛かった甘ったるい声には、小紅のような未通(おぼこ)の娘にもそれと判るくらい、はっきりと情事の名残が窺えるような気がした。
 やはり、ここは、はっきりと言ってやらねば。小紅は覚悟を決めて、ひと息に言った。
「私が栄佐さんをお訪ねしたのは引っ越しのご挨拶ともう一つ、まだお天道さまも高い中から、女の人と淫らな行いに耽るのを止めて頂きたいからです。ここは狭い長屋ですよ? 壁は薄いし、人の声は丸聞こえです。いつ、どこで何をしようが、栄佐さんの自由だとは思いますが、そういうことをやるのなら、ここではなく、出合い茶屋かどこかでして下さい」