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残り菊~小紅(おこう)と碧天~

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 難波屋は名も知られていなかった小店にすぎなかったのを、現在は同業者から一目置かれるほどのお店(たな)に育てたのである。
 父が出奔した時、上州屋に残っていた奉公人は数えるほどだった。その中の一人はおさわといって、小紅を育ててくれた母代わりの乳母であった。母は優しい人であったけれど、身体が弱く病がちであったから、小紅を育てたのは乳母だと言って良い。
 もちろん、小紅は母も大好きだったが、おさわも実の母のように慕っていた。特に母が亡くなってからの年月はおさわが側にいなければ、乗り越えられなかったかもしれない。父に意見して頬を打たれ、泣いている小紅を抱きしめてくれたのも、冷たい手ぬぐいで頬を冷やしてくれたのも優しい乳母であった。
 無一文となった小紅に最早、使用人を雇うゆとりはない。おさわは給金は要らないと言ってくれるが、一緒に暮らすのにも食べ代がかかる。それでなくとも負担を強いている叔父にこれ以上、乳母まで面倒を見て欲しいとは言えず、ここでおさわとは泣く泣く別れることになった。
 おさわは独り身である。若い頃に上州屋の手代と所帯を持ったらしいが、良人は早くに亡くなったそうだ。子どももいないから、その分、余計に小紅を慈しんだのだろう。
 長らく世話になった彼女に何もしてあげられないことを小紅は悔やんだ。そのことを乳母に話すと、おさわは涙ながらに言った。
―お嬢さま、私は子どももおらず上州屋さんしか身を寄せる場所はなかった身です。それがお嬢さまの乳母となり、可愛らしいお子さまを育てるという生き甲斐も与えて頂きました。どうか私のことなど心配なさらず、お嬢さまは今のお優しい心を大切になすって、必ずお幸せなって下さいまし。
 今も涙混じりのおさわの声が耳奥に残っている。帰る当てもないあの乳母は今頃、どこでどうしているのだろうか。
 物想いに耽る小紅の耳を静かな雨音が打つ。そういえば、あの朝―父が情人(いろ)と出奔した朝も外は雨が降っていた。まるで誰かの流す涙のように、小紅の行く先を憐れむかのように、絹糸のような繊細な雨が庭木をしとどに濡らしていた。
 ひと雨毎に冬に向かっていく儚げな季節を知らしめるかのように、冷たい秋の終わりの雨は小紅の心を薄ら寒くさせた。
 乳母と泣いて別れたのはつい昨日のことなのに、もう何十年も経たような気がするのは何故だろう。
「小紅ちゃん?」
「あ、はい」
 小紅は長い物想いから我に返った。眼前には叔父の武平の気遣わしげな顔がある。
「済みません、叔父さま」
 叔父が引き取ってくれなければ、今頃、自分はどうなっていたか知れたものではない。良くて岡場所、下手をすれば吉原遊廓に身を沈めていたはずなのだ。
 叔父のお陰で遊女にならずに済んだばかりか、こうして以前と変わらないお嬢さま暮らしができるのだから、昔を懐かしんでいる場合ではない。そんなことをしたら、罰が当たる。
 申し訳なさで一杯になりながら謝ると、叔父は父によく似た眼許を和ませた。
「良いんだよ。短い間に色んなことがありすぎたんだから、普通でいられないのは当たり前さ。まあ、当分は何もかも忘れて、ここでのんびりと暮らすが良い」
 心からの労りの滲んだ声音に、思わず涙が出てくる。父によく似ている叔父を見ていると、どうしても父のことを思い出してしまう。
 あんな男、父親なんかじゃない。幾度もそう思おうとした。一人娘を棄て、借金をも背負わせるつもりで若い女と夜逃げした父。後に残した娘の辿る運命がどのように悲惨なものとなるかも知った上で、父は女と逃げたのだ。
 冷酷で血も涙もないような男を父とは呼べない。それでも、小紅は父を心底から憎めなかった。風采の上がらない中年男と駆け落ちするなんて、女が本気であるはずがない。しかも、父の相手の佐津という女は身持ちが悪いと評判の女だった。
 小紅はたとえ相手が岡場所上がりの女だとしても、父を心から愛している人であれば構わないと考えていた。父はまだ四十なのだ。もう一度幸せになって貰いたいと思っていたから、再婚に反対する気もなかった。
 が。佐津は父だけでなく、常に複数の男と深間になり、それぞれの客から相当の金をせしめていたようである。身を切り売りする商売柄、複数の男と関係を持つのは致し方ないとしても、そのすべての男と好いた惚れたと囁き交わし、男をその気にさせ金品を巻き上げていたのは許し難い所業である。
 どうせ父も佐津に良い具合に手のひらで転がされていたに相違ない。四十男が娘のような歳の若い女に操られ頭に血が上って、ついには実の娘を棄て店の金や家宝を持ち女と逃げた。
 果たして佐津がどこまで父と添い遂げるつもりなのか、小紅はそれが気になった。算盤勘定・商いにかけては頭の切れる父だが、力仕事などしたこともなく、からきし駄目なのだ。
 いずれ持ち出した金がなくなり、家宝も売りさばいてしまえば、父は佐津にとっては何の価値もない男になる。恐らくはその時、佐津は父を棄てるだろう。
 世間を知らない十五の小紅ですら見抜ける事の顛末が、父には見えなかった。それほど佐津にのぼせ上がっていたのだ。金蔓でなくなった父など、大勢の男を知る佐津には何の魅力もないことだろう。
 佐津に棄てられた父はますます自暴自棄になる。ろくに力仕事もできない四十の男に、生きていくすべはあるのか。
 自分を無情にも借金だけ背負わせて棄てた父親だが、実の父親が苦しむのを願うことはできなかった。
 あんな父親、女に棄てられて、どこででも野垂れ死んじまえば良い。
 そう思おうとしても、思えない。
 女と逃げる前夜、父が呑ませてくれた甘酒にも恐らくは眠り薬が潜んでいたのかもしれない。それも佐津の入れ知恵とも考えられた。
 だからこそ、翌朝まで小紅は一度も起きることなく、いささか深すぎるほどの眠りに落ちたのだ。
 小紅は耳聡い質で、夜中に物音がすれば―特に父の寝間はさして遠くなかったから、すぐに目覚めたはずだ。倉の家宝はいつ運び出したのかも判ず、事前に少しずつ運び出して、どこかに隠していたとも考えられる。
 が、たくさんの財宝がなくなっていれば、定期的に見回る番頭が異変を見抜くはずだ。だから、出奔した夜にあらかた持ち出した可能性が高い。
 ならばかなりの物音がしたはずなのに、奉公人は誰一人として目覚めなかった。何と父はご丁寧に小紅だけでなく、番頭や他の奉公人にまで甘酒をふるまい、その中に睡眠薬を仕込ませていたようである。
 嘉一は口には出さなかったけれど、いつになく深い眠りがその酒のせいだったと気づいているようであった。
 甘酒を皆にふるまい、皆が眠り薬で眠っている間に、父はまんまと金と財宝を持ち出し、佐津と逃げだのだ。まったく大店の主としてはあるまじきふるまいであった。
 遠からず父は佐津に見限られる。そのときに父が自棄になってまた馬鹿なことを考えつかなければ良いがと思う小紅である。

 武平の営む難波屋は日本橋通(とおり)油町(あぶらまち)にある。もちろん叔父の家だから、幼い頃から父に連れられて訪れたことはあったけれど、実は長居をした試しはない。