残り菊~小紅(おこう)と碧天~
始まりは雨
悪夢は、あの朝から始まった。それは、まさに小紅(おこう)にとって青天の霹靂であったといえよう。
小紅の父は上州屋といって、江戸でも一、二を争う呉服太物問屋を手広く商っている。屋号からも判るように、初代ははるばる上州から出てきて最初は小さな小間物屋から始めたようだが、それから数代を経た今では、押しも押されぬ大店としての信用と実績を勝ち得ていた。
たとえ主筋の娘とはいえ、父の仁助(にすけ)は躾けには厳しかった。奉公人たちと同じように朝は早くから起き出し、身の回りのことはすべて自分でするように育てられた。
が、その前夜に限り、小紅は父の居間に呼ばれて遅くまで話し込んだ。話は小紅の母おもとが生きていた頃にまで及び、?おやすみなさい?と告げて自分の部屋に戻ったのは深夜になっていた。
仁助は婿養子であった。丁稚の時分から陰陽なたなく真面目に働いているところをおもとの父―つまり先代に認められ、早くから上州屋の次の主(あるじ)にと目されていたという。
父は小男で風采も上がらない。見た目でいえば、若い娘が好むような質ではなかったが、父の実直な人柄を母もまた好もしく思ったようで、やがて所帯を持った二人は似合いの夫婦となった。
父は先代の期待に応え、地道に商いに励み、上州屋は初めて上方にも出店を出すことになった。ところが、である。
母おもとが急死した。小紅が十一のときである。元々身体の丈夫でなかったおもとは夏風邪をこじらせたのが元で、呆気なく生命を落としてしまった。
母を失ってからの父は到底、見ていられなかった。それまで商売ひと筋に打ち込んできた人が呑まなかった酒を飲むようになり、しかも酒量も次第に増えていった。
先代から長年仕えてきた大番頭は衷心から意見したものの、父はなかなか聞き入れようとはしない。そんな中、番頭の吉三郎(きちさぶろう)が店を辞めたのをきっかけに一人、二人と奉公人が辞めていった。
その頃からだろうか、上州屋の品物の質が落ちたと囁かれるようになったのは。その頃には、父は昼間から店にも出ずに奥で酒を浴びるように飲むようになっていた。
良くないことは続くものだ。母の死の二年後、傾く一方だった店を何とか守ろうとしてきた大番頭が亡くなった。六十になったところであった。
大番頭は近くから通ってきていて、小紅は到底知らん顔はできず、心ばかりの香典を持って弔いに訪れた。しかし、出迎えた息子はけして良い顔をしなかった。
―親父は上州屋さんのために寿命を縮めたようなもんだ。毎日、酒浸りの主人に心を痛めて、倅としちゃア、見てはいられなかったよ。
息子の言葉に嘘はなかった。小紅は小さくなって、ただただ頭を下げるしかなかった。
結局、お線香を上げることもできず、門前払いを喰らわされた。
大番頭が最期の枷だったのだろう、以後の父の行いはますます荒れていった。最初は母のいなくなった淋しさを紛らわせるつもりだったのが、もう酒なしでは過ごせない身体になってしまったのだ。
大番頭の死後半年くらい経った頃、小紅は父について良くない噂を聞いた。もっとも、父に関してはもうろくな噂がないことは知っていた。それでも、その話を初めて耳にしたときは信じられない想いだった。
あろうことか、父が岡場所の女と懇ろになっているというのだ。まだ二十歳そこそこの若い女に夢中になり、言われるままに大金を貢いでいるという話だった。
流石にこれには知らん顔はできず、十三歳の子どもながら父に抗議したけれど、かえって腹を立てた父に殴られた。
―子どもの癖にお前は父親に説教するのかえ?
どうやら、女の悪口を言われたのが癇に障ったらしい。
―おとっつぁんは、その女に騙されているのよ。
その一言が父を怒らせたのは判っている。
しかし、見た目もパッとしない四十男の父は娘から見ても、女にモテる口ではない。恐らく女は父の金と上州屋の身代が目当てで近づいたに違いなかった。
母が生きていた頃、父にぶたれたことなど一度たりともなかった。
―おとっつぁんはもう昔のおとっつぁんじゃないのね。
頬よりも心の方が痛かった。
更にそれから二年が経った。上州屋の繁盛は昔の夢となり、今は数人残った奉公人で細々と暖簾を守っているような有様である。
父とは殆ど話さない日々であったが、何を思ったか、父は昨日に限り小紅を呼び出し、珍しい甘酒だといって呑ませてくれたばかりか、母の想い出話までした。昨夜の父は昔どおりの温厚な父で、小紅はもしかしたら、父がまともになる決意をしてくれたのではと儚い希望を抱いたのだったけれど―。
その朝、小紅の深い眠りは番頭の嘉一の狼狽えた声で破られた。
「お嬢さま、お嬢さまっ」
何故か重たい頭は、まだ芯が眠っているようで、こんなことは珍しい。いつもならとっくに目覚めている刻限だ。
「どうかしたの?」
本来なら主人の娘の寝間に無断で入室してくるのは無礼だ。だが、そのときの嘉一の狼狽えぶりはただ事ではなかった。
「一体、何があったの?」
まだぼんやりとした意識を持て余しながら問えば、嘉一は泣きそうな声で訴えた。
「旦那さまが―夜逃げされました」
刹那、小紅は息をするのを忘れそうになった。
「夜逃げをしたというの? おとっつぁんが」
どうか嘘であって欲しいと思った。
が、嘉一は首を振る。
「どうやら、夜の中にお出になったようで。布団はもちろん店中、江戸市中もすべて心当たりは探しましたが、見つからないのです」
しかも、店の金庫からは有り金すべて、更に上州屋の倉に代々伝わっている家宝の骨董なども持ち出せる物はすべて持ち出されてしまっているという。
「お嬢さまには大変申し上げにくいのですが、これは恐らくは予め計画されたものでは」
「―」
最早、言葉もなかった。昔の父ならばともかく、今の父であれば不思議はない話である。
次々と入ってくる情報は小紅にとっては耳を塞ぎたいものばかりだった。
父は例の岡場所の女、お佐津と手に手を取って出奔したのだ。店の金と家宝を持って。しかも、小紅は迂闊にも知らなかったが、父は方々に多額の借金を拵えていた。
小紅は一夜にして大店のお嬢さまから一文無しどころか借金を抱える孤児となった。が、小紅はまだしも幸せだったといえる。
行き場のなくなった小紅には借金を返せる当てもない。本当ならば、遊廓に身を沈めてでも父の残した借金を支払わねばならない。それを父の弟である難波(なにわ)屋武平が借金をすべて肩代わりしてくれた上に、孤児となった子紅をも引き取ったのだ。
父の実家は小さな青物屋を営んでいたが、今はもう商いはしていない。二人きりの兄弟で、弟の武平も幼い頃から奉公に上がった。難波屋もまた呉服太物問屋である。かつての上州屋には及ばないものの、中規模どころの固い商いをする店として特に最近ではめきめきと頭角を現していた。
父と違って叔父は養子ではあっても、家付き娘と結婚して婿に迎えられたわけではない。子のない主人夫婦の義理の息子として迎えられ家業を継いだのだ。父は身を持ち崩してしまったけれど、元々、この兄弟には商いの才覚があったのだろう。
悪夢は、あの朝から始まった。それは、まさに小紅(おこう)にとって青天の霹靂であったといえよう。
小紅の父は上州屋といって、江戸でも一、二を争う呉服太物問屋を手広く商っている。屋号からも判るように、初代ははるばる上州から出てきて最初は小さな小間物屋から始めたようだが、それから数代を経た今では、押しも押されぬ大店としての信用と実績を勝ち得ていた。
たとえ主筋の娘とはいえ、父の仁助(にすけ)は躾けには厳しかった。奉公人たちと同じように朝は早くから起き出し、身の回りのことはすべて自分でするように育てられた。
が、その前夜に限り、小紅は父の居間に呼ばれて遅くまで話し込んだ。話は小紅の母おもとが生きていた頃にまで及び、?おやすみなさい?と告げて自分の部屋に戻ったのは深夜になっていた。
仁助は婿養子であった。丁稚の時分から陰陽なたなく真面目に働いているところをおもとの父―つまり先代に認められ、早くから上州屋の次の主(あるじ)にと目されていたという。
父は小男で風采も上がらない。見た目でいえば、若い娘が好むような質ではなかったが、父の実直な人柄を母もまた好もしく思ったようで、やがて所帯を持った二人は似合いの夫婦となった。
父は先代の期待に応え、地道に商いに励み、上州屋は初めて上方にも出店を出すことになった。ところが、である。
母おもとが急死した。小紅が十一のときである。元々身体の丈夫でなかったおもとは夏風邪をこじらせたのが元で、呆気なく生命を落としてしまった。
母を失ってからの父は到底、見ていられなかった。それまで商売ひと筋に打ち込んできた人が呑まなかった酒を飲むようになり、しかも酒量も次第に増えていった。
先代から長年仕えてきた大番頭は衷心から意見したものの、父はなかなか聞き入れようとはしない。そんな中、番頭の吉三郎(きちさぶろう)が店を辞めたのをきっかけに一人、二人と奉公人が辞めていった。
その頃からだろうか、上州屋の品物の質が落ちたと囁かれるようになったのは。その頃には、父は昼間から店にも出ずに奥で酒を浴びるように飲むようになっていた。
良くないことは続くものだ。母の死の二年後、傾く一方だった店を何とか守ろうとしてきた大番頭が亡くなった。六十になったところであった。
大番頭は近くから通ってきていて、小紅は到底知らん顔はできず、心ばかりの香典を持って弔いに訪れた。しかし、出迎えた息子はけして良い顔をしなかった。
―親父は上州屋さんのために寿命を縮めたようなもんだ。毎日、酒浸りの主人に心を痛めて、倅としちゃア、見てはいられなかったよ。
息子の言葉に嘘はなかった。小紅は小さくなって、ただただ頭を下げるしかなかった。
結局、お線香を上げることもできず、門前払いを喰らわされた。
大番頭が最期の枷だったのだろう、以後の父の行いはますます荒れていった。最初は母のいなくなった淋しさを紛らわせるつもりだったのが、もう酒なしでは過ごせない身体になってしまったのだ。
大番頭の死後半年くらい経った頃、小紅は父について良くない噂を聞いた。もっとも、父に関してはもうろくな噂がないことは知っていた。それでも、その話を初めて耳にしたときは信じられない想いだった。
あろうことか、父が岡場所の女と懇ろになっているというのだ。まだ二十歳そこそこの若い女に夢中になり、言われるままに大金を貢いでいるという話だった。
流石にこれには知らん顔はできず、十三歳の子どもながら父に抗議したけれど、かえって腹を立てた父に殴られた。
―子どもの癖にお前は父親に説教するのかえ?
どうやら、女の悪口を言われたのが癇に障ったらしい。
―おとっつぁんは、その女に騙されているのよ。
その一言が父を怒らせたのは判っている。
しかし、見た目もパッとしない四十男の父は娘から見ても、女にモテる口ではない。恐らく女は父の金と上州屋の身代が目当てで近づいたに違いなかった。
母が生きていた頃、父にぶたれたことなど一度たりともなかった。
―おとっつぁんはもう昔のおとっつぁんじゃないのね。
頬よりも心の方が痛かった。
更にそれから二年が経った。上州屋の繁盛は昔の夢となり、今は数人残った奉公人で細々と暖簾を守っているような有様である。
父とは殆ど話さない日々であったが、何を思ったか、父は昨日に限り小紅を呼び出し、珍しい甘酒だといって呑ませてくれたばかりか、母の想い出話までした。昨夜の父は昔どおりの温厚な父で、小紅はもしかしたら、父がまともになる決意をしてくれたのではと儚い希望を抱いたのだったけれど―。
その朝、小紅の深い眠りは番頭の嘉一の狼狽えた声で破られた。
「お嬢さま、お嬢さまっ」
何故か重たい頭は、まだ芯が眠っているようで、こんなことは珍しい。いつもならとっくに目覚めている刻限だ。
「どうかしたの?」
本来なら主人の娘の寝間に無断で入室してくるのは無礼だ。だが、そのときの嘉一の狼狽えぶりはただ事ではなかった。
「一体、何があったの?」
まだぼんやりとした意識を持て余しながら問えば、嘉一は泣きそうな声で訴えた。
「旦那さまが―夜逃げされました」
刹那、小紅は息をするのを忘れそうになった。
「夜逃げをしたというの? おとっつぁんが」
どうか嘘であって欲しいと思った。
が、嘉一は首を振る。
「どうやら、夜の中にお出になったようで。布団はもちろん店中、江戸市中もすべて心当たりは探しましたが、見つからないのです」
しかも、店の金庫からは有り金すべて、更に上州屋の倉に代々伝わっている家宝の骨董なども持ち出せる物はすべて持ち出されてしまっているという。
「お嬢さまには大変申し上げにくいのですが、これは恐らくは予め計画されたものでは」
「―」
最早、言葉もなかった。昔の父ならばともかく、今の父であれば不思議はない話である。
次々と入ってくる情報は小紅にとっては耳を塞ぎたいものばかりだった。
父は例の岡場所の女、お佐津と手に手を取って出奔したのだ。店の金と家宝を持って。しかも、小紅は迂闊にも知らなかったが、父は方々に多額の借金を拵えていた。
小紅は一夜にして大店のお嬢さまから一文無しどころか借金を抱える孤児となった。が、小紅はまだしも幸せだったといえる。
行き場のなくなった小紅には借金を返せる当てもない。本当ならば、遊廓に身を沈めてでも父の残した借金を支払わねばならない。それを父の弟である難波(なにわ)屋武平が借金をすべて肩代わりしてくれた上に、孤児となった子紅をも引き取ったのだ。
父の実家は小さな青物屋を営んでいたが、今はもう商いはしていない。二人きりの兄弟で、弟の武平も幼い頃から奉公に上がった。難波屋もまた呉服太物問屋である。かつての上州屋には及ばないものの、中規模どころの固い商いをする店として特に最近ではめきめきと頭角を現していた。
父と違って叔父は養子ではあっても、家付き娘と結婚して婿に迎えられたわけではない。子のない主人夫婦の義理の息子として迎えられ家業を継いだのだ。父は身を持ち崩してしまったけれど、元々、この兄弟には商いの才覚があったのだろう。
作品名:残り菊~小紅(おこう)と碧天~ 作家名:東 めぐみ