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残り菊~小紅(おこう)と碧天~

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 しかし、その後、準平という男のどうしようもない部分を次々と見せつけられるにつけ、小紅の気持ちは変わった。天地が逆さまになろうと、あんな男に付いてはゆけない。奇蹟でも起きない限り、あの馬鹿が真っ当に心を入れ替えるとは思えないし、仮に起きたとしても、いつのことになるか知れたものではない。
 何十年かかるか知れないのに、それまで、あんな男と一緒にいるのも振り回されるのもご免だった。
 たとえ叔父の悲願であろうと、これだけは譲れない。父の残した借金をすべて肩代わりしてくれた叔父への恩義はいまだ忘れてはいない。が、だからといって、そのために自分の一生をこの難波屋に縛り付けられるわけにもゆかないのだ。
 いや、百歩譲って、難波屋のためなら、生涯を捧げても良い。叔父が守り続けてきた大切な店なのだから。ただし、それは難波屋の次の当主が準平でなければの話である。あんな男と同じ家に暮らすなんて、考えただけでもゾッとする。
 結論はとうに出ているのに、言い出せないまま日はいたずらに過ぎた。その年も終わり、新しい年になった。当主の喪中ということもあり、難波屋では正月の行事は特に行われず、世間でいうところの松ノ内も過ぎた。
 年の終わりから、何を思ったか、準平が頻繁に家に帰ってくるようになった。その日もつい三日前に顔を覗かせたばかりで、珍しく店先に出て客の応対なんぞをしたものだから、お琴は
―紅い雪が降りますよ。
 と笑っていた。
 これは丁度、良い機会かもしれない。小紅は考えた。準平に難波屋の新しい主人としてやっていく気構えができたのなら、自分はいつでもここを去れる。
 出ていくに当たり、小紅は誰にも別離は告げに去るつもりだ。母のように思っているお琴にだけは本当の気持ちを打ち明け、暇乞いをするつもりであった。
 一月も明日で十日になろうという夜、小紅は自室で一人、武平の袢纏をひろげていた。本当は野辺送りの折に武平の棺に入れようかと思っていたのだけれど、やはり、これは武平の形見として貰っておこうと大切に保管することにしたのである。
 袢纏にそっと顔を押し当てると、武平の匂いがした。たった十日ほどしか着て貰えなかったけれど、武平はとても歓んでくれた。
―小紅、私はもしこの生命を生き存えることがあれば、そのときはもう我慢はしない。たとえ倅から奪うことになっても、自分の意思を貫いてお前を自分のものにする。
 息を引き取る少し前、武平は確かにそう言った。
 もし、あの時、武平が言葉どおり、生き存えていたなら、小紅の運命も変わっていただろうか。武平の妻となり、この難波屋の栄枯盛衰を見守っていっただろうか。
 小紅は尽きぬ想いを振り払うように首を振った。止そう、すべてはもう終わったのだ。武平は亡くなり、自分はここを出ると決めた。見果てぬ夢をいつまでも追い続けても、何も生まれない。
 過去は振り向かず、前へ。ただひたすら前へ向いて進もう。
 小紅の脳裏にあの冬の初めに庭で見た残菊がありありと浮かぶ。すべてが灰色に沈み込んだ初冬の景色の中でそこだけ鮮やかに色づいていた小さな空間。季節の流れに逆らわず、さりとて、流されるだけでもなく、自分の花を精一杯咲かせていた白い可憐な菊たちの姿に、小紅は叔父の生き様を見たのだ。
 小紅も菊になりたい。秋の季節を大胆に彩り、大輪の花を咲かせる派手やかな菊も良いが、それよりは季節の終わった後、ひっそりと一輪だけ人知れず花開く―そんな生き方が良い。
 たとえ見てくれる人がいなくても良いし、小紅があの菊たちに気づいたように、誰かが眼にとめてくれるかもしれない。大切なのは誰かに愛でられることではなく、自分がどれだけ一生懸命に自分の花を咲かせたかどうかだろう。
 出ていくなら、早い方が良かった。長くいればいるほど、大切な人との別れが辛くなる。お琴には明日の朝、近い中にここを出ると伝えようと思った。
 武平の形見の袢纏をきちんと畳んだその時、部屋の障子が開いた。
「―」
 部屋を覗いたのは準平だった。小紅は眼を見開いた。こんな夜更けに何の用なのだろう? 幾ら従弟とはいえ、男が女の寝所を訪ねる時間ではない。
 まなざしにいささかの非難を込め、小紅は準平を見つめた。
「何か、ご用ですか?」
 こんな男にはつけいる隙を与えては駄目だ。小紅はとりつく島もない態度で接した。
 だが、厚かましい男は小紅のまなざしなど眼に入らないかのように平然と部屋に入り込み、後ろ手に戸を閉めた。
「何だよ、許婚者につれない態度だな」
 まだ父親の四十九日も済まないのに、よくもへらへらと笑っていられるものだ。
「私はあなたと婚約した憶えはありません」
「そうなのか? 親父は確かに俺たちの前で言ったはずだがな。お前は俺の女房になると」
「あれは口約束にすぎませんから」
「では、お前は亡くなった親父の遺言に背くつもりなのか?」
「それでは、私もお訊きします。あなたは亡き旦那さまのお言いつけをちゃんと守っていますか?」
「言いつけたァ、何のことだ」
 面白そうにこちらを眺めているところを見れば、判っていて知らないふりをしているのだ。
「旦那さまは跡取りであるあなたに、もっとしっかりとして欲しいと願われていました。旦那さま亡き今、あなたはこの難波屋の主人です。旦那さまが生前なさっていたことすべて、きちんと憶えて、やって頂きたいと思います」
「へえ、早くも女房気取りで俺に命令するのか」
 小紅はキッと準平を睨んだ。
「私はあなたと結婚するつもりはありません」
「―何だって?」
 だらしなく笑っていた準平の顔から笑みが消えた。
「旦那さまは仰せでした。人の縁というものは複雑に入り組んでいるように見えて、実際には簡単なものなのだと。一人から出ている縁の糸は誰か特定の一人にしか繋がっていない。だから、その縁を大切にしなさいとも言われました」
「それは俺とお前が縁で結ばれてるってことだろう」
 小紅はゆっくりと首を振る。
「私も最初はそうなのかと思いました。でも、幾ら考えても、私自身は、あなたが私と繋がっている縁の人だとは思えないのです。準平さん、きっと、あなたにもそういう天の決められた女(ひと)がどこかにいるでしょう。旦那さまが最期まで信じていたあなただから、あなたはきっとこの店を立派にやっていくだけの器量を持っているのだと思います。どうか叔父さまのご期待を裏切らず、この難波屋のために尽くして、立派な主になって下さい」
「それで、お前はどうする?」
 小紅は少しうつむき、顔を上げた。
「私はここを出ていくつもりです」
「本気なのか? お前だって俺に負けねえほど蝶よ花よと育てられたお嬢さまなんだぜ。そんなお前がたった一人で生きていくっていうのかい」
「大丈夫です。私なら、何とかやるつもりですから」
 小紅は微笑んだ。
「二度と逢うこともないでしょうが、どうか叔父さまの残したこのお店をよろしくお願いします」
「―させるか」
 次の瞬間、小紅は我が身に何が起きたのか判らなかった。まるで飢えた狼が子ウサギを仕留めるかのように襲いかかられ、小紅は眼を瞠った。
「止めて、何をするの?」