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残り菊~小紅(おこう)と碧天~

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「惜しい人を亡くしたものだ。私も隠居して跡を倅に託して悠々自適を決め込もうと思っていたのです。倅は何分、まだ商いのいろはも判らぬ若造ですから、難波屋さんにしっかりと後見して貰おうかと思っていたのですがね。寄り合いの長も引退を機に後任は難波屋さんを推そうと思っていたが、本当に思うに任せないものだ」
 京屋といえば、江戸で押しも押されぬ大店であり、その主市兵衛は婿養子でありながら身代を先代から数倍も大きくしたといわれる凄腕の大商人だ。どのような有名な大店の倅でも、一度は京屋で見習い奉公させて市兵衛から直接商人とし一人前に仕込んで貰いたいと、頼み込んでくる大店が後を絶たない。
 若い頃から?氷の市兵衛?と異名を取るほど冷徹な面も持っていたが、周囲の反対を押し切って長らく恋仲であった二度目の内儀を迎えてからは、別人のように人当たりがやわらかくなったといわれる。
 若い時分は歌舞伎役者も色褪せるとたとえられたほどの美貌は、今もいささかも衰えてはいない。相も変わらず吉原へ上がれば、つんと澄ましている花魁たちも市兵衛には色目を使うという話だ。
 市兵衛に話しかけられ、生糸問屋の隠居はおいおい泣いた。
「京屋さん、お前さんはまだ五十前だろう。儂が隠居したのは還暦だったぞ。まだまだ隠居なんかするのは早いんじゃないかの」
「ご隠居、私ももう歳を取りました。一昨年嫁いだ娘にも今年、孫が生まれたので、そろそろ潮時かなと思いましてね。これからは家内と二人で気随気儘に暮らしますよ」
「何じゃ、お前さん、いつまでも若く見えるが、もう孫ができたのかえ」
「五十で初孫は遅い方ですよ、お恥ずかしい」
 そんなひそやかなやりとりがふっとかき消えた。
 僧侶たちの読経が始まったのだ。読経が始まってからしばらく経った頃、並みいる弔問客の間を真っすぐに進んでくる者がいた。
 しわぶき一つない厳粛でしめやかな空間の中、その光景はどこか異様に映った。誰もが哀しみに暮れ、うつむいて神妙に読経に耳を傾けている。だが、あろうことか、その若い男は僧侶の真後ろに突っ立ったまま、焼香の香をまだ真新しい白木の位牌にぶつけたのである。
 しかも、その男は粋な縞柄の着物を着流して、到底、葬儀に参列するようななりではない。
 一瞬、その場がどよめいた。
「何ということを」
「あれは?」
「難波屋さんの跡取りですよ」
「後を託す倅があの有様では、難波屋さんもさぞ心残りだったでしょうね」
 あちこちで漣のように囁き交わされる言葉。
「あの跡取りは気でも触れておるのかな、京屋さん」
 生糸問屋の隠居は露骨に眉をひそめた。
「さあ、連日、吉原で流連(いつづけ)を決め込んでいたという札付きの放蕩息子らしいですよ。まだ十五だといいますが」
 京屋は低めた声で応じる。
「何とまあ。十五で吉原に流連とは、こりゃまた、よほどの大物か、もしくは大阿呆じゃろうて」
 隠居は最早、呆れ果てて物を言う気もなくなったようであった。
 その時、小紅は唇を固く噛みしめて最前列に端座していた。人々の囁き声は小紅にまで届いていた。
 何故、死んだ人に恥をかかせるようなことをするのだろう。父親の弔いに顔を出さないどころか、やっと出てきたと思えば、紋付きも着ず、着流しのままだ。しかもその姿で位牌に立ったまま香を投げつけるとは。
 準平は武平が実の父親だと信じているはずだ。だとすれば、武平は紛れもなく準平の実の父に相違ない。実の父親の葬儀でこんな醜態を晒して、どうするつもりなのか。
 小紅は怒りと恥ずかしさに身体が熱くなった。あまりに唇を噛んだので、血の味が口中にひろがる。しかし、そうでもしていなければ、小紅は何か訳の判らないことを喚き出しそうで堪らなかった。
 武平が必死に守り続けたものは一体、何だったのだろう。我が身を犠牲にし続けて守ってきたものが、これなのだろうか? それでは、叔父があまりに可哀想すぎた。

 葬儀から三日が過ぎた。難波屋は現在、一番番頭の指揮の下、とりあえずは武平が生きていた頃と変わらず店を開けている。番頭は長らく奉公して常に武平のやり方を見てきたので、困ることはない。
 その他、奥向きの細々とした采配は小紅が担当していた。もっとも、武平に女房はおらず、たった一人の倅は家にろくに寄りつきもしないのだから、奥向きの差配も何もあったものではない。
 小紅は小さな溜息をついた。
 今し方、一番番頭が居室を辞していったばかりだった。話の内容は、準平との仮祝言を年明け早々に行ってはどうか、というものだった。
 もちろん、まだ武平の四十九日も明けてはいないのだからとその無謀さを説いたけれども、番頭は、それならせめて四十九日の法要を終えたらすぐに仮祝言をと譲らない。
―まだ正式なご結納も済ませていない若いお二人が同じ屋根の下でお暮らしになるというのも世間的に外聞が悪うございます。また、難波屋の新しい当主としてのご自覚を若旦那さまにお持ち頂くためにも、一日も早い祝言を挙げて頂きたいのです。仮の祝言なら、一年の喪明けを待たずとも、挙げることは可能ですし、本祝言はいずれまた旦那さまの喪明けを待って、大々的に親類ご縁者をお呼びして行うということでいかがでしょうか。
 番頭の指摘は道理であった。奉公人としては、このままでは難波屋のゆく方が危ういと危機感を憶えているのだ。何しろ、葬儀でのあの馬鹿げたふるまい以降、準平は一度も難波屋に帰っていない。
 これは小紅はあずかり知らぬことではあったけれど、実は番頭は何度か吉原に出向いて準平と話しているのだ。番頭は畳に頭をすりつけて?どうかお店にお帰りになって下さいまし?と頼み込んだ。
 準平は番頭に向かって煙管(きせる)をふかしながら言った。
―あの女を俺に抱かせてくれたら、俺は難波屋に帰ってやっても良いぜ。
―あの女といいますと、小紅お嬢さまのことで?
―もちろん。俺が後にも先にもぞっこんで、欲しいのは小紅だけだからな。あいつを俺にの思いどおりにして良いのなら、ずっと店にいるさ。
 まるで幼児が欲しい玩具が貰えないと拗ねているようにしか思えない言い様だ。しかし、準平が小紅を欲しがっているのなら、願ってもない話ともいえる。
 元々、小紅は先代の主人武平の言いつけで準平の許婚者となるはずだった娘である。そういう娘なのだから、この際、祝言を挙げて夫婦にしてしまえば問題はない。これがいきなり準平が帰ってきて、小紅を手籠めにでもしたら、困ったことになる。
 まあ、そうなれば、さっさと祝言だけを挙げてしまえば良いし、あの馬鹿旦那の望みが判れば、事はいかようにも運べる。小紅一人の身で難波屋が立ちゆくのなら、あの娘には犠牲になって貰えば良い。
 そんな番頭の目論見も知らず、小紅は小さな吐息をついた。
 店の行く末をひたすら案じる番頭に、実はここを出ていくつもりなのだとは到底言い出せない。既に小紅の中で準平の女房になるという図式はまったく消えている。
 準平と所帯を持って次代の難波屋を盛り立てていって欲しい。武平の願いを聞いたときは、そのつもりであった。すべてを諦め何も望まず淡々と店のために尽くす武平の姿を自分も見習うつもりでいたのだ。