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残り菊~小紅(おこう)と碧天~

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 それでも、涙は後から後から溢れてくる。涙は知らずに熱い滴となり、武平の頬にしたたり落ちた。小紅の涙が武平の魂を死地から呼び戻したのだろうか。
 武平の固く閉じられた瞼がかすかに動いた。
「―こう。小紅」
 消え入るほどにか細い囁きが聞こえた気がして、小紅は儚い期待に胸を震わせた。
「叔父さま?」
 見れば、武平がうっすらと眼を開けていた。
「気がついたのね」
 勢い込んで言うのに、武平が少し笑った―ように見えた。
「まったく私ときたら、お前には、みっともないところばかり見せているね」
「そんなことないわ。叔父さまは、いつも素敵よ。世の中には自分のことしか考えられない人は一杯だけど、叔父さまは違うでしょう。いつだって、ご自分よりも他の誰かのために働いているわ。でも、今度からは、もう少しご自分を大切になさってね」
「お前は私を買いかぶっているだけだよ。今も私は後悔している」
 武平は血の毛の失せた顔にうっすらと微笑を刷いていた。
「後悔? 何を後悔しているの」
「あの夜のことさ。お前を自分から手放してしまったこと。幾ら悔やんでも悔やみきれない。綺麗事を並べ立てて、結局、いちばん大切なものを私は失ってしまったのかもしれない」
「―そんなことはないわ。叔父さまのおっしゃっていたことは正しいと今なら判る。たった一本の縁の糸を大切にしなさいという叔父さまの教えはずっと忘れないでいるつもりよ」
「そう、か。だが、小紅、私はもしこの生命を生き存えることがあれば、そのときはもう我慢はしない。たとえ倅から奪うことになっても、自分の意思を貫いてお前を自分のものにする」
 武平が小さなうめき声を上げた。
「痛むの?」
 小紅が狼狽えると、武平はまた弱々しい笑みを作った。
「たいしたことはない。小紅、やはり私はもう無理みたいだ。できれば生きて、お前とこの人生をやり直してみたいと思ったけれど、もう寿命は尽きたようだ。どうか一生に一度しかない縁を見つけたら、それを大切にして欲しい」
 武平のまなざしがふっと遠くなった。
「見えるよ、私には見える。お前がまだ五つくらいだった頃、うちに遊びに来たときがあったね。あの時、肩車をして庭を歩いた。庭には桔梗が咲いていて、本当に夢のように綺麗だった。あれは本当に幸福な夢だったんだろうか」
 今、この瞬間、武平の瞳には幼い日の小紅が映じているに違いない。
「叔父さま。もう終わりだなんて言わないで。また一緒に、お庭を歩きましょう。桔梗の咲くのだって何度でも見られるわ」
 小紅の声は涙混じりだった。
 と、突如として障子が音を立てて荒々しく開いた。
「やはり、お前は親父とできてたんだな」
 準平が冷め切った表情で立っていた。到底、瀕死の床に伏している父親を見つめる息子の眼とは思えないほど、冷徹な瞳。その冷えたまなざしが今度は小紅に向けられる。
 一瞬、素肌を蛇が這ったかのように、ゾワリと鳥肌が立つ。
 いつから武平と自分の話を聞いていたのだろう。だが、この際、小紅にとってはどうでも良い話であった。
 こんな男、叔父さまの息子と名乗る価値もない人間だわ。心から、そう思う。この男のせいで叔父はさんざん苦労させられ、寿命まで縮めることになった。準平は小紅から大好きな叔父と愛する男、その両方を奪おうとしている。憎しみを感じこそすれ、それ以外の感情を抱くことなどできない。
 この男が自分と叔父の間をどのように下卑た詮索をしようが、知ったことではなかった。
 小紅は腹に力をこめ、準平を真正面から見据えた。
「今はそんなことをいっている場合ではないでしょう。良い歳をして、子どものように騒ぎ立てないで、みっともない」
「何だとォ」
 準平が手を振り上げたが、流石に病床ではまずいと思ったのか、渋々手を下ろす。
「小紅、―準平が来たのか?」
 声で判ったのか、武平の力ない問いかけがあった。小紅は視線で準平に促す。
「ええ、たった今、お帰りになったみたい」
 だが、準平はふて腐れた顔でプイと背を向けて立ち去っていった。
「準平さん! お父さまがお呼びよ」
 思わず叫んだが、武平は小さく首を振った。
「良いんだ。あいつは誰かに言われて素直に動くようにヤツじゃない。好きなようにさせておきなさい」
 武平の手が差しのべられた。小紅はすかさずその手をしっかりと握りしめる。
「小紅、私の小紅。最後にもう一度だけ言わせておくれ」
 その一言は唇の動きだけ、口許に耳を寄せて初めて聞き取れるほどのかすかな囁きだった。
―愛しているよ―
 急に腕から力が抜けた。
「叔父さま? 叔父さまっ」
 小紅は狂ったように幾度も恋しい男を呼んだ。
「お嬢さまっ、旦那さまに何か―」
 折しも番頭が持ち帰り煎じた薬湯を運んでくるところであった。準平が開け放したままでいなくなったので、寝間の様子は廊下からもすぐに判った。
「叔父さまが―、叔父さまが」
 小紅が泣き叫ぶのに番頭はすべてを悟ったらしく、急いで医者を呼びにまた飛び出していく。
「叔父さま、私を一人にしないで。ずっと側にいて守ってくれるって約束したじゃない」
 叔父さまがいなくなって、私はこれからどうやって生きてゆけば良いの?
 叔父さまのいないこの世はあまりにも広すぎて、淋しすぎる。
 小紅は武平の亡骸に取り縋って号泣した。
  
 弔いの日は雪が降った。雪は武平が眠るように息を引き取った翌朝から降り始め、更にその翌日も止むどころか、ますます烈しさを増した。
 まるで天も若くして無念の死を遂げた彼の魂を悼むかのように、空から降り注ぐ白い花びらは散華のようにも思えた。
 降りしきる雪にも拘わらず、あまたの弔問客が難波屋を次々と訪れ、さして大きくない構えの店には入りきれないほどの人となった。
 その中には公私ともに長年の付き合いの友人、知人がおり、生前の武平の付き合いの広さを物語っていた。大店の旦那衆ばかり集まった連歌の会は教養人のたしなみとしての同好会のようなものであった。
 武平は数年前に乞われて入会したものの、最初は固辞したそうである。
―私は大店の旦那さま方ばかりがお集まりの会には、ふさわしくありません。
 それが理由であった。難波屋はめきめきと知名度を上げてきているものの、それでもまだ、名の通った大店とはいえない。しかし、連歌の会、?青柳?の会長である生糸問屋の隠居がわざわざ難波屋を訪ねていって頼み込んだことで、漸く武平は入会したという経緯があった。
「あんなに良いお人がこんなに早く逝ってしまうなんて、世の中はあんまり無常すぎますよ」
 孫に付き添われ、杖をつきつき弔問に訪れた生糸問屋の隠居は泣いていた。
「何の役にも立たない年寄りが代わっていれば良かった。商売人であれだけ実のあるお人は滅多といない。これから先ももう二度と、現れることはないでしょう」
 隠居の述懐はその場に居合わせた人々の涙を誘わずはいられなかった。
 真っ先に弔問に訪れたのは同業者ばかりが集まった寄り合いの長、京屋市兵衛である。五十を目前にした市兵衛は翌年早々には身代を長男に譲るという話が出ていた。