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残り菊~小紅(おこう)と碧天~

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 不幸にも準平は小紅がこの世で最も嫌いな質の男だ。良い歳をしてろくに働こうともせず、親の臑をかじって恥ずかしいとも思わない。甘えたいだけ甘え放題で、説教されれば悪態をつく。
 これから自分はどうなるのだろう。あんな男と夫婦となって、果たしてやってゆけるのか。小紅が思い描く未来は、暗澹としており、何の希望も見いだせなかった。
 小紅が三度目の溜息をついた時、廊下でお琴の声が聞こえた。
「お嬢さま、お嬢さま」
「どうしたの? 何かあったの」
 応える間もなく、障子戸が開く。お琴が蒼白な顔で座っていた。
「旦那さまが大変なんでございますよ。とにかく早くおいでになって下さいまし」
 いつも朗らかな笑みが絶えないお琴の丸い顔には悲痛な表情が浮かんでいる。これはただ事ではないと、小紅は立ち上がった。お琴の後に続き武平の寝間の前まで小走りに駆けてきた時、向こうから戸板に載せられた武平が運ばれてくるのが見えた。
「叔父さま!」
 小紅の哀しみに満ちた声が響き渡った。
 戸板を担いできたのは番頭と手代であった。傍らには白髪を総髪にした医者らしき人も付き添っている。
 武平を数人かがりで布団に寝かせ、後は医者に任せた後、一同は廊下に出た。
「一体、どうしたの、何があったというの!」
 小紅が矢継ぎ早に訊ねると、難波屋に最も長く仕えているという一番番頭がうなだれて言った。
「旦那さまはいつものように深川で寄り合いにお出になったんですが、その帰り際に知らせを受けられ、急遽、賭場にお寄りになったんでございます」
 武平の伴をして深川に行った番頭は、別室で主人の帰りを待っていた。そこに急な知らせが寄越されたのだという。
「何でも賭場で若旦那さまが諍いを起こされた挙げ句、相手を匕首(あいくち)で刺しちまったとかで、旦那さまは慌てて、そちらにお向かいになりました」
 相手は旗本の四男で、職もなく遊び歩いてるような極道息子だった。要するに身分は違えども、似たようなどうしようもない二人が些細なことで口論だけでは済まず、取っ組み合いの喧嘩となった。
 それでも、相手は侍である。たかだか商人の倅がまともに太刀打ちできる立場ではないことは判りそうなものだ。喧嘩相手は武士なのだから、いざ力勝負となれば、刀を抜けば良いだけの話で、勝負はあっさりと付くはずだ。なのに、なかなか抜刀しなかった辺りは同じような放蕩息子でも、向こうの方が人間は少し上だったのかもしれない。
 それが、馬鹿な準平の方がカッとなって先に匕首を振りかざして斬りかかっていったのだ。当然ながら、そこで相手も刀を抜いたが、時既に遅し、準平は力貸せに匕首を振り回し、その切っ先が相手の武士の二の腕をかすった。
 傷自体はたいしたことはない、擦り傷である。しかし、町人が直参を手に掛けたという罪は重く、下手をすれば死罪になる。
 一部始終を聞いた武平は一言、
―愚か者めが。
 と吐き捨てるように言い、すぐに駕籠を飛ばして賭場に向かった。
 相手の若い武士は最初は頑なに話に応じようとしなかったが、武平が情理を尽くして話している中に言った。
―そこの馬鹿には情けをかけてやる価値もないが、息子を思う親父どのの心に免じて今度ばかりは許してやる。
 侍は示談に応じ、武平は相応の金子を慰謝料として支払うことになった。そのお陰で、侍はけしてこのことを公儀には届けないと証文まで書いてくれた。
 どう見ても準平とさほど歳の変わらぬ武士は帰り際、
―お前には勿体ないほどの父親だ。せいぜい親父どのに感謝するんだな。
 ただの棄て科白だけとは思えない言葉を投げていった。
「旦那さまがお倒れになったのは、その直後です」
 急に倒れた武平に周囲は愕き、騒然となった。帰りかけていた件(くだん)の若さまが引き返してきて、
―これはただ事じゃねえ。
 と、自分の屋敷に出入りしている高名な医者を呼んでくれたそうだ。倅の喧嘩相手の若い武士の心すら一瞬で掴んでしまった武平という男の人柄を物語る話である。
 すぐに医者がやってきて、武平を診た。その結果は、急激な精神的打撃による心臓発作を起こしたのだという診立てだった。
「精神的打撃による心臓発作―」
 小紅は呟いた。
「それで、準平さんは?」
 当然、この場にいるべきはずの人物が見当たらない。番頭は沈痛な面持ちで首を振った。
「こちらに帰る直前まではご一緒だったのですが、そこから先は―」
 言い淀んだところを見れば、姿を消してしまったのだろう。自分のために多額の慰謝料まで払い、大罪を不問にしてくれた父親が倒れたのに、彼はいなくなった。
 もう、駄目。
 小紅は絶望的な気持ちになった。そこまで節操も良心の欠片もない男だとは思わないし、思いたくもなかった。だが、過酷な現実を突きつけられた今、小紅の準平という男に対する気持ちは完全に冷え切った。恐らくもう、何をもってしても、この冷めた心が戻ることはない。
 小紅はそこで思考を切り替えた。今はあんな阿呆のことなど、どうでも良い。
 障子を静かに開けると、白髪の医者が振り返った。医者はそのまま部屋を出てきた。
「先生、いかがでしょうか」
 既に診立ては聞いた後だったが、一縷の望みを託して問えば、老齢の医者は難しげな表情で首を振った。
「今夜が山ですかな。有り体に申し上げて、持ち直すのはかなり難しいかもしれない。私の診たところ、ご病人は既に何度も小さな発作を繰り返されている。そこに精神的な負荷がかかりすぎて、大きな発作が起きた。また、養生第一が肝心にも拘わらず、日頃から無理を重ねておられたようですな。身体そのものも弱っておられるようですから、かなり厳しい状況だと申し上げざるを得ません」
 流石は旗本の掛かり付け医だけあり、来ている羽織袴も絹製で上等なものである。品も良く、身分を笠に着て奢ったところもなく、小紅のような少女にも丁重に接してくれた。
 小紅は医者に深々と頭を下げ、番頭が見送りにいった。医者を送り届けたその足で薬を貰ってくるとのことだった。
 小紅は障子を閉め、武平の枕辺に座り込んだ。
 人間とは何と儚いものか。つい今し方まで元気で笑い話していた人がこんな風に物言わぬようになってしまう。
―日頃から無理を重ねておられたようですな。身体そのものも弱っておられるようですから、かなり厳しい状況だと申し上げざるを得ません。
 先刻の医師の言葉が耳奥でこだまする。
 馬鹿よ、叔父さまは。自分のことなんてこれっぽっちも考えずに他人のことばかり考えて。その挙げ句、こんなになっちまうだなんて、大馬鹿じゃないの。
 小紅はその場に打ち伏して、すすり泣いた。
 こんなことなら、あの夜に抱いて貰えば良かった。たとえ叔父さまに身勝手な娘だと嫌われたしても、その夜を一生涯の想い出に生きてゆけるもの。
 そこで小紅は首を振る。
 何を愚かなことを考えているのだ、自分は。大馬鹿なのはこの自分ではないか。武平が死ぬはずはない。そんなことがあって良いはずがない。この誰よりも優しい人がこれで終わりだなんて、良いはずがない。