残り菊~小紅(おこう)と碧天~
「最後に顔を見せてくれないか」
そう言われ、小紅は顔を上げる。武平は小紅の顔を刻みつけるように見つめ、人差し指で彼女の目尻に堪った涙をぬぐった。
「愛しているよ」
武平の唇が小紅の唇にそっと重なった。触れるだけの口づけ(キス)、本当に蝶の羽根が掠めるほどの淡いものにすぎなかった。けれど、小紅にとっては初めての口づけであり、生涯の想い出になるであろう口づけであった。
「もう夜も遅い。嫁入り前の娘がいつまでも男の部屋にいるのは外聞も悪いだろうから、部屋に戻って寝みなさい」
つい今し方の男の情熱を感じさせる熱っぽい口調ではなく、もう普段の叔父の声に戻っている。
それで良いのだと小紅は自分に言い聞かせながら、立ち上がった。
「おやすみなさい」
いつものように姪として挨拶すると、叔父からも?おやすみ?と優しいけれど、それ以上は踏み込ませないような声音が返ってくる。
これで良かったのだ。もし二人が激情に流されて一夜を共にしてしまったら―。恐らく叔父の恐れるような事態になってしまうだろう。準平がどうなろうと自業自得だが、優しい叔父が後々まで苦しむ様は見たくない。また、自分と結ばれたことを叔父に後悔はして欲しくない。
もし仮に武平にも自分にも他人を顧みずに自分たちだけが幸せであれば良いと思えるだけのしたたかさ―ある意味では強さともいえる―があれば、二人はその夜、結ばれていたはずだ。
それは身勝手さという言葉で言い換えることもできる。誰かが幸せになる一方では、また誰かが報われない想いに涙することもあるのだと割り切れれば。しかし、二人ともにその強さを持っていなかった。
だから、これで良い。私は叔父の望みどおり、準平と祝言を挙げて難波屋を盛り立てていく。それに人生の伴侶としてではなくても、準平と結婚すれば、武平は叔父ではなく義父になる。近くでずっと大好きな武平の顔を見ていられる。それで満足しよう。
小紅は泣きながら布団に入り、いつしか眠ってしまった。
旅立ち
その日、難波屋の店先はいつになく閑散としていた。師走も半ばを過ぎ、朝から鈍色(にびいろ)の雲が分厚く江戸の町の上に垂れ込め、気分まで陰鬱になりそうな空模様である。寒さも殊の外厳しく、この冬いちばんの寒気に見舞われたようであった。
もっとも、師走ももう、下旬になろうとしている。寒さが日毎に厳しくなるのも自然の理というものだ。
客の出足が今一つなのも、この悪天候のせいもあるだろう。こんな寒い冬の日はどこにも出かけず、家の中にいた方が誰だって良いに決まっている。
昼を回っても客の出ははかばかしくなく、その日はどうやら商売には不向きな日なのかもしれないなどと、この頃、流行りの辻占に凝っている手代が言い出す始末。
小紅は昼前に、一度、店を覗いたが、武平の姿は見当たらなかった。客がいないせいか、若い手代や良い歳をした番頭までもが辻占帳なるものを囲んで、明日の運勢はどうのこうのと話が盛り上がっている。
普通、占いとかに夢中になるのは女だけだと思っていたけれど、現実にはそうでもないようである。とはいえ、小紅は、そのテの占いとか迷信はあまり信じる質ではないが。
「で、その辻占い師っていうのが十八、九の凄ぇ美人で、これがおまけによく当たるのさ」
手代の新吉が声高に興奮した面持ちで喋っているのが聞こえる。
「何だ、手前は占いそのものより、その美人の占い師の方が目当てで通ってるんじゃねえのか」
二番番頭が若い手代をはやし立てている。
小紅はそんな賑やかなやりとりを聞きながら、そっと踵を返した。自室に戻る途中で運良くお琴に出くわしたので、問うてみる。
「旦那さまは、どうしていらっしゃるのかしら」
「旦那さまなら、今はお出かけでございますよ、お嬢さま。今日は深川でまた急な寄り合いがあるとかおっしゃってましたからね」
「そうなの、ではお帰りは遅いのでしょうね」
「さあ、どうでしょうか。旦那さまは大抵は寄り合いの後は真っすぐにこちらにお戻りですから、さほどに遅くはならないのではないでしょうか」
ふと思い立って、小紅は別のことを口にした。
「準平さんは?」
「は?」
口には出さずとも、小紅が準平を嫌っていることをお琴は承知している。その小紅の口から準平の名が出たものだから、少々面食らっているようだ。
「若旦那さまでしたら、お出かけになっておりますが―、っていうより、こんなことをお嬢さまのお耳に入れて良いものかどうか判りませんけれど、昨日もその前もこちらにはお戻りなっていません」
「―そう」
小紅は頷き、礼を言って居室に戻った。やはりという想いと失望感が押し寄せる。武平と自分が両想いだと知った歓びも束の間、武平は義理の息子のために自らが身を退いた。小紅の想いには応えられないと言われ、小紅の初恋は芽生えてすぐに泡沫(うたかた)のように消えた。
ならば、自分に残された道は一つ。準平と祝言を挙げ、難波屋を盛り立てていくしかない。そのためにも可能であれば、準平と心を寄り添わせたいと儚い希望(のぞみ)を抱いたのだけれど。
やはり、あの甘ったれた放蕩息子を真人間にするのは難しいのかもしれない。もし仮に準平が既に骨の髄まで遊興癖に浸っているのであれば、それは小紅の力をもってしても、誰が説いて聞かせたところで不可能なのだろう。
が、血の繋がらない準平をひたすら息子として慈しみ、その幸せを願う武平の気持ちを思えば、容易く諦めて良いものではない。
あの夜から十日、小紅の方から武平の居室を訪ねることはなかったが、時折、自宅で見かける彼は小紅が丹精こめて縫い上げた袢纏を着ていることが多い。
互いの気持ちを確認した今となっては、不必要に近づかない方が良い。武平らしい思慮は小紅にはよく判った。たとえ結ばれない宿命にあると諦めていても、互いに想い合う男女が迂闊に近づきすぎれば、越えてはならない一線を越えることにもなりかねない。
武平と以前のように屈託なく喋れないのは淋しいが、同じ家に住んでいるのだ。逢おうとは思えば、いつでも逢える。そう思うことが、今の小紅を辛うじて支えていた。
二人の間には、今や一触即発、ともすれば一挙に燃え上がりそうな焔がくすぶっている。しかし、それもやがては時が解決してくれるはずだ。刻が経てば、武平と自分はまた以前のように仲の良い叔父と姪の関係に戻るだろう。それまでは武平が無言で示しているように、近づきすぎない方が良いのだ。
小紅は自分の気持ちを無理に封じ込めていた。
居室に戻り、小さな溜息をつく。
何を今更、愕くことがあるというの? あの極道息子が大体、家にいた試しがあるのか? 小紅が難波屋で厄介になってから、そろそろひと月になろうとしているが、少なくとも昼間に準平を見かけたのは許婚者として五年ぶりに対面した時、後は物置に連れ込まれ陵辱されそうになったときだけだ。
大概、あの男は吉原に入り浸っているのだとお琴が教えてくれた。
やはり、無理だ。小紅は二度目の大きな息を吐き出し、首を振る。
作品名:残り菊~小紅(おこう)と碧天~ 作家名:東 めぐみ