あの日のキミにごめんね
克弥の動悸は、家に帰っても治まらない。ずっと走ってきた所為ではない。
「ただいま」の声も張りがなく、子ども部屋へと入った克弥は、いつもならば座るのが嫌な勉強机の前に腰掛けた。
呼吸も平常に戻り、背負っていた鞄を下ろしても、まだ動悸だけが克弥の胸を打ち続けるのを感じた。頭の中には、万里子の声と、僅かに目の合った横顔がずっと離れなかった。
克弥の母が、おやつに焼いてくれていた小さなマドレーヌも ひとつ食べるだけしか手が出なかった。
子ども部屋で、本棚に凭れ、読みかけの冊子を開いてはみても、目で追う文字は逃げ、何度も同じところを読み返してしまう。うわの空だ。
万里子の家の人が、いつ怒鳴り込んでくるだろうか。それとも、電話をかけてくるだろうか。
浮かぶ万里子と、周りの音を探る耳が克弥の頭を重く感じさせていった。
電話が鳴った。
克弥の頭の中が、一瞬で真っ白になった気がした。少し治まった動悸がまた打ち始めた。
体を浮かし、ドアの向こうを伺い聞く。克弥の母の様子からして、電話の相手は、父親のようだとわかった。安堵の気持ちと、まだ刑の確定しないもどかしさを胸に抱えた。
鞄を開けて、出された理科の宿題を始めた。国語の漢字の書き取り練習は、学校の放課の間にやり終えてしまった。
理科の実験の流れを思い出し、書き留める。絵に色をつける。
克弥の好きな宿題だ。それなのに、何度も消しゴムが必要だった。
やっとやり終えた頃、克弥は、母に呼ばれ、夕食の為にダイニングルームへと行った。
食卓には、克弥の妹がいたが、食事の途中で眠くなったらしく、母親と席を離れていった。
いつも通り母の作る克弥の好物は、克弥の口と心を楽しませた。少し、笑うことができた。
食べている途中で、克弥の父も帰宅した。
「おとうさん、おかえりなさい」
「ただいま。今日も克弥の好物だな。父さんも好きだ」
そのあと、克弥の父と母がにこやかに話すのを、ほっとした気持ちで見ていた。
「克弥は、今日は楽しかったか?」
「うん、まあまあだね。ごちそうさま」
克弥は、席を離れると 子ども部屋へと戻っていった。
明日の学校の準備をして、風呂に入り、ベッドにもぐった。目を閉じると、やっぱり万里子のことが浮かんだが、何もなかったことに安心していつしか眠っていった。
作品名:あの日のキミにごめんね 作家名:甜茶