幸福の指輪
邂逅
「……ショウ?ショウ」
母さんの声が聞こえた。その声は、何処か遠くから聞こえて来るようで、それでいてとても近くから聞こえて来る。
手の中にひんやりとした感触があった。
これはなんだろう?とぼんやりとした気分でまさぐると、やがて鋭い感覚が手に走る。
「ショウ!」
母さんの甲高い声が聞こえた。
やがて、ぼくの意識は覚醒していく。
ハッと目を開くと、心配そうな顔でぼくを見下ろす母さんの姿があった。
「おはよう母さん……もう朝かい?」
窓から日の光が射しこんで来る。
言いながら、ぼくはゆっくりと体を起こした。
ソファの隣では、相変わらず母さんが、気を揉んだ様子で立ち尽くしている。
どうしたのだろう?ぼくは訝しく思った。
「ショウ……お前一体どうしたの?」
母さんがそう問いかけて来るものの、ぼくにはその意味が掴めなかった。
「どうしたのって……一体何が?」
今度はぼくが問うと、母さんは顔をしかめながら、ぼくの腿の辺りを指差した。
「それよ……それ。お前、どうしてそんな物を持って眠っていたの……?」
言われてそちらに目をやり、ぼくはハッとした。
腿の上に、赤い水滴をつけた刃物が乗せられている。台所で使うキッチンナイフだ。
それを見つめていると、徐々に指の先に鋭い痛みが襲って来る。
指先に視線を向けると……ああ、なるほど。
指の先端の部分に一本、切れ目が入っていて、そこから赤い血がチョロチョロと流れ出てきていた。
「とにかく……とにかく、これで傷口の周りを拭きなさい」
狼狽した様子で、母さんが真っ白なハンドタオルを渡して来る。
「うん……」
とぼんやりした気分でそれを受け取り、チリチリとした痛みに耐えながら、流れ出てくる血を押し止める。真っ白なハンドタオルが、少しずつ血液色に染まって行く。
それを見ながら、ぼくはどうしてこんな事になっているのだろうと考えた。
指先の傷は簡単だ。寝る前に、どういうわけかぼくはキッチンナイフを持っていて、それを抱え込んだまま寝た物だから、その刃が指先を滑って、切り傷を作ってしまったのだろう。問題は、その前段階。どうしてぼくは、わざわざキッチンナイフなんかを持って眠っていたのかという事だ。
もしかすると、侵入者に備えて、警戒心からそれを持っていたのかもしれない。
考えて、ぼくは頭を振るった。どうして、昨日唐突にそんな警戒心が沸き起こったのか理解出来ない。こんな危なっかしい物を持ったまま寝たら、来るかも分からぬ侵入者よりよっぽど危険である。
馬鹿馬鹿しい……。そう結論付けた所で、何かが頭の片隅に引っかかった。
キッチンナイフ……侵入者……。
ぼくはハンドタオルを染めている鮮血に目をやった。
何を思うわけでもなく、ぼくは直感的にハンドタオルを外すと、それを腿の上に乗せて、手を高く掲げて見せる。
血液が、まるで水滴の様に、ポタリポタリとハンドタオルの上に落ちて行く。
血液……血液……水滴。
そこまで考えて、ハッとぼくは思い出した。
水滴……そうだ、あの女。
ぼくの脳裏に、夜中遭遇した光景が蘇る。
ぼくの持ち去った指輪を求め、真夜中に上り込んできた、ずぶぬれの女……。
ぼくはあわてて身を起こすと、ソファから飛び降りて、廊下へと続く扉の方へと向かった。
もしもあれが夢でなかったとして……そうしたら、扉の前や廊下に、水滴の作った水たまりが広がっているはずである。
あの夜の光景を否定したくて、そこには何もない事を祈りながら向かったが果たして……。
ない。そこには、水の跡なんて跡形もなかった。
あれは……やっぱり夢だったのだ。そうとも、あんな事が現実に起こるわけがない。
そう思ったものの、どうにもあれを夢の出来事と結論する事が出来ない。何かが頭に引っかかり、モヤモヤとした感覚を残す。
もしもあれが夢だったのなら……なぜぼくはキッチンナイフなど持っていた?
背筋が冷たくなって来る。まさか……そんなことあり得ない……。あり得ないけど……もしかしたら。
ぼくは居ても立ってもいられなくなって、母さんに手短に行先を告げると、その理由などは告げずに、大急ぎで服を着替えて、家を飛び出した。
目的地を目指して走りながら、手の傷に何も処置をしていない事を思い出したが、さして気にはならなかった。
息を切らせつつ走り、ぼくは半ば倒れ込む様にして目的地へと滑り込む。
体にまとわりつく砂を払い落として体を起こし、ぼくは周囲を見回した。
海鳥の鳴き声と、打ち寄せる波の音。幾度となく訪れた砂浜の景色。
ぼくが求めている物はここにあるはずだった。いや……少なくとも昨日まではここにあった。
打ち寄せる波に足を浸しながら、ぼくは必死に死体を探す。
つい昨日見つけた、貴族の女性の死体……。あの死体を見つけることが、今のぼくにとってはもっとも重要な事だった。果たして、夜中に遭遇したあの女は、夢なのかそれとも……。一目でも良い。死体をこの目で確認したかった。あの体は、もう決して動くことはないのだと言う事を、自分自身に納得させたい。馬鹿げた空想を、一刻も早く打ち払いたかった。
だが、どれだけ必死に探しても、死体は見つからない。
砂浜を、端から端まで歩き回ってみたものの、それらしき物は確認できなかった。
「はぁ……はぁ。クソッ」
ぜぇぜぇと息を切らし、肩を上下させながら、ぼくは悪態をつく。
「どこに行ってしまったんだ……?」
念のために、もう一度周囲を見回してみる。
……本当に、いつも通りの砂浜だった。まるで、死体なんて、最初から流れ着いていなかったかの様な、ごく普通の平穏な砂浜。
しかし、そんな当たり前の風景が、ぼくにはとても不気味に感じられた。
この砂浜にないというのなら……あの死体は何処へ消えた?
誰にともなく、呟いてみる。
何処だ……あの水死体は何処へ消えた。この場所に残っていないというのなら、どこかへとそれは移動しているはず……。
一体、何処へ?誰が……。
……誰が?
ここに来て、第三の可能性が浮上してくる。今までは、物事をオカルト的に捉えるか、それともそれを否定するかの二者択一でしかなかったが、誰かがあの死体を何処かへと運んで行ったというのは十二分に考えられる話だった。いや、現実的に考えるとするのなら、その可能性が一番高いはずである。
また、加えて述べるのであれば、波にさらわれた可能性だってある。
いずれにせよ……この浜辺にはもう、死体はない。
そう結論付けると、急に力が抜けたみたいになって、砂浜に尻餅をついた。
砂浜で、必死に死体を探すのなんて、我ながら変わった事をしているなと思う。たしか昨日は、恐ろしくて仕方のなかったはずなのにね……。
そう考えて、自嘲的な笑みを浮かべていると、ふと下げた視線の中に影が被さって来た。
それと同時に、頭上から声が降って来る。
「坊や、何か探し物かい?」