幸福の指輪
「だってほら……貴女はもう死んでいる。否定はしないでしょう?あんな状態で浜辺に打ち上げられていたのだもの。死んでいなくちゃおかしい」
ひどい事を言っていると思った。彼女は、本当に不運な事故で、哀れな死を遂げたのかもしれないのに。ぼくは、彼女を憐れむどころか、どこか嘲笑的な笑みさえ浮かべている。
しかし、勢いを止める事は出来なかった。ここで引いてはいけないと、対抗意識が命じている。
「死んだ貴方が抱え込んでいるよりは、先を生きるぼくらの未来のために使った方が、遥かに有意義だ」
ぼくがきっぱりと言ってみせると、女は寂しげな表情を浮かべて、首を傾げた。
「死んだら、存在そのものがこの世界から消えてしまうと……そうお思いですか?」
微かな微笑を浮かべながら、女がそう問うてくる。
「貴方は何が言いたいのですか?」
ぼくは皮肉った口調で言って、微かに唇の端を持ち上げた。
「肉体は死すとも魂は死なず……。たとえ、肉体は滅んでも魂はこちらの世界に留まり続けるのです……。そんな風な事を話すつもりなんですか?」
言いながらぼくは、それはそれで悪くない事なのではと思った。たとえ、肉体は滅んでも魂だけはいつまでも大切な人に寄り添っている……。そんな風な感動的な話をいくつか聞いた事がある。
もし母さんの肉体が滅んだとしても……母さんはぼくと一緒にいてくれるだろうか?
そこまで考えて、ぼくは頭の中からそんな風な想像を追い払う。
ダメだ……何を考えているんだ、ぼくは。そこに生きていて、話しかけられて、触れられなければ仕方のない事じゃないか。たとえ、死んだとしても……なんてのは、生かすことが出来なかった愚か者の言い訳である。
ファンタジックな空想に浸るより、その時間を惜しんで、少しでも母さんを延命させる方法を探る方が、遥かに効率的だった。
嘲って口にしてみせたぼくの言葉を聞いて、女はやはり、寂しげな表情を浮かべながら、首を左右に振るった。
「いえいえ、もちろんそんな風な事は申しません。死して生を失った魂というのは、本当に儚く、か弱い存在なのです。死後、しばらくもすれば、やがて風化して消える物質の様に、風に乗って塵となってしまう事でしょう……ただ」
女はじぃっとぼくの方に視線を注いだ。
「この世に未練を残して、どうしてもあちらの世界に行けない場合というのがございます」
言うと、女はすっと水だらけの腕を持ち上げて、ぼくのポケットを指差した。
ビチャビチャと音を立てて、水滴と呼ぶにはあまりに数が多い水が床に零れ落ちる。
「わたしにとっての未練がその指輪……」
女は哀願する様な口調で言って、続けた。
「誰にでも、特別思い入れのある物というのはありますでしょう。幼少の頃の思い出の品だとか、大切な人から贈られたプレゼントだとか。そういった特別思い入れある物というのは、他の物とは違った存在感で、その人の心に留まり続けます。貴方の持ち去ったその指輪は、主人がわたしに永遠を誓ってくれた本当に大切な物なのです」
そう言って女は、ぼくの同情を誘おうとするように泣き笑いを浮かべた。
なるほど……やはりあれは、婚約指輪だったのか。キラキラに輝く、大層な婚約指輪。彼女はあれを指にはめられながら、夫に永遠を誓われたという。女性にとってその瞬間は、他の何事にも代えがたい、至極の幸福なのだろう。それだけに、婚約指輪が、他の物とは違う、特別な価値観を持って来るのもうなづける。
「返して……いただけませんか?」
女が懇願する様な口調で問いかけてくる。
その様子はあまりにも哀れだ。もっと高圧的に「返せ」と言われたのなら、きっぱりと拒絶の感情しか湧いてこなかったのだろうが、こうも悲しげな話を聞かされては、ついつい心も揺れそうになってしまう……。
しかし、ダメだ……。そんな風な話にだって、耳を貸せない理由がぼくにはある。
「悪いけれど、そう言われてもこの指輪を返す事は出来ない」
そう言って口にしてから、ぼくは断固とした強い意志を示す様に、ナイフの切っ先を女の方に向けない。
「ぼくにとってだって、その指輪は特別な意味合いを持つ代物に変わりつつある。母さんを助けられる奇跡に、ようやっと手が届きそうなんだ。この指輪を売った後なら、この指輪は好きにしてくれても構わない。ただ……」
ぼくはそこで言葉を切ると、目を鋭く細めて女を睨みつけた。
「それまでは、たとえどんな事があったとしても、この指輪を渡す事は出来ない」
ぼくがそう言い放つと、女は悲しげな表情を浮かべた。
ぼくはてっきり、ヒステリックな声を上げて彼女が取り乱すのじゃないかと警戒していたのだが、ぼくの言葉を聞いた彼女は、ただ冷たく「そうですか……」と言葉を零しただけだった。
「貴方の強い決意は分かりました……。母上に対するその愛の強さは称賛しましょう。ただし、これだけは言っておきます」
そこで女は言葉を切ると、冷たい視線をぼくの方に投げかけた。
「そんな風な方法で身に着けた幸福が、長続きする事は、おそらくきっとないでしょう。いつの日か……やがていつの日か、必ず代償として幸福を失う時がやってきます。それでもなお、目の前の幸福を手にしたいのならば、ご自由に。わたしはただ、指輪を返してもらえる機会を、ただ待ち続けるだけでございます……」
そこまで言い終えると、女は冷たい笑みを浮かべた。これから、何をすることも厭わないぞという、冷たい決意の様な物が感じられる。それらは、もしかするとぼくの錯覚なのかもしれないけれど、ぼくにはその瞬間の彼女の笑みが、ただただ恐ろしい物に思えて仕方なかった。
ゴクリと固唾を呑み込むぼくの目の前で、女の姿はまるで風に吹き飛ばされる煙の様に、ぼんやりとしたたなびきを残して消えて行くのだった。