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幸福の指輪

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侵入者


ピチャリピチャリと、奇妙な音が聞こえた。
まるで、水滴か何かが零れている様な、そんな風な音……。
明かりを消したリビングのソファの上で、徐々に意識が覚醒していく。
何かおかしいぞと、思った。
最初は、台所で水が零れているのかと思った。しかし、音のする方向に耳を澄ませて、やがてそれは廊下の方から聞こえて来る事に気が付いた。
廊下で……水滴の音?
耳を澄ませてみる限り、雨が降っている気配はない。雨漏りではないという事だ……。
じゃあ、どういう事だ?
次第に次第に、水滴の音は近づいて来る。
移動している……?一体何が。
次第に、足音も聞こえて来る様になり、段々に恐ろしい想像が脳裏に広がってきた。
この気配は……まさか。
あの水死体?
ぼくは、息をつめて、足音が近づいて来るのを感じていた。静かにソファから身を起こし、靴を履いて、侵入者に備える。
錯覚なのか現実なのか分からないが、どうにも辺りが肌寒くなってきた様な気がした。
ひんやりとした空気の中で、ぼくは自分の身を庇うように抱きしめる。
明かりが欲しかった。何か、暗闇を……侵入者を照らす事の出来る明かりが。それから、自分の身と……母さんを守る事の出来る武器が。
闇の中を手探りで移動し、ライトを探した。
どこだ……どこかにあったはずだ。落ち着いて、注意深く辺りを探る。
手が引き出しに触れた。頼む……あってくれと、祈る様な気持ちで引き出しを開き、中に手を入れると……あった。
しかし、それと同時に、廊下へ至る扉の所からギギギ……と誰かに開けられる音が聞こえてきた。
ぼくは、慌ててキッチンナイフを引っ張り出すと、得物を手に、侵入者の方を振り返った。
「……」
対峙して、息を呑む。これは果たして、現実なのだろうか。この女は何者なのだろうか。生者?それとも死者?
既に見知った貴族の女は、ずぶぬれになった青白い顔に何も表情を浮かべず、ただじっとこちらを見つめていた。
闇の中浮かび上がる顔は、何とも不気味だ。まったくもって、“生気”というものを感じられない。ということはやはり……死者なのか?
女の全身から水滴が零れ、ピチョピチョと音を立てる。たとえ綺麗な服を着ていて、本人も美人だったとしても、これだけ水に濡れてしまっていれば、何とも情けない有様だ。その様子が何とも言えず哀れで、ついつい目を逸らしたくなる。自分にはまったく、計り知れぬ事だけれど、この女性に何があったのか少し気になった。
「夜分遅く……失礼します」
聞いているこっちの気分が沈んでしまう様な暗い声で、不意に女はぼそっと口にした。
「何を……しに来たんですか?」
女を睨みつけ、ぼくは問う。しかし、その答えは、聞くよりも前に分かり切っていた。
「指輪を……返してもらいに来ました」
今にも消え入りそうな声で、女は口にする。
ああ……きっとこうなるであろうと、ぼくは心のどこかで予感していた。廊下に足音が聞こえてきた時点で、それは指輪を取り戻しに来たのだと、心のどこかで分かっていた……。これはもともと、彼女の物なのだから。
「貴方が……持っているのでしょう?」
女が青白い顔に髪を張り付けて問う。とても綺麗で、だけれどみすぼらしいブロンドの髪。その間から覗く、生気に欠けた瞳は、じぃっとぼくのポケットに注がれていた。
きっと、彼女は全てを分かっている。全てを理解して、その上で問いかけているのだ。今更何を隠しても無駄に違いない。……だったら、もう隠す気なんてなかった。
「そう……たしかに、指輪はぼくが持っている。それは、今のぼくにはこの指輪が必要だからだ」
キッチンナイフを、手元で弄びながらぼくは口にする。
彼女には悪いけれど、この指輪を返すつもりはなかった。ぼくには、断固たる意思がある。母さんの命を救うために、今ここで手放すわけにはいかなかった。
ぼくが、きっぱりと口にすると、女は凍りついた表情に、微かな笑みを浮かべながら答えた。
「貴方もまた……差し迫った状況の中にいるのだという事は理解します。背に、腹は変えられぬのだという事も……」
同情する様に目を伏せて、彼女は「ですが……」と口にする。
「間違った行いだとは、思いませんか?」
女が真っ直ぐにぼくの瞳を見つめて、問いかける。
「それは……」
すぐに答える事は出来なかった。彼女の指輪を盗った事に関して、ぼくが罪の意識を感じているのも事実なのである。彼女の言葉を、きっぱりと否定することは出来なかった。微かに口を開いて、空気を吸い込むだけで、言葉を紡ぐ事は出来ない。そんな自分がもどかしかった。
たしかに、自分は間違っている……。人としてすべき正しい選択を出来ていないのは、事実だった。だが……仕方がないではないか。このまま黙って、母を見殺しにしろという方が無理な話だ。母さんはよく、「他人に親切にしていれば、いつかきっと自分に返って来る」と言っていたけれど、今なら分かる……そんなのは嘘だ。
どれだけ綺麗な言葉を並べたって、結局人間は善良なフリをした嘘つきなのだから……。そんな状況の中で、時に道を踏み外してしまうのも、きっと仕方のない事だろう。もしも、道を外れぬ以外に、打開策がない場合には、どうしろと言うのだろうか。
間違った事なのだと頭の中では分かっていても、そうせざるを得ない時がある。
臨機応変に、物事を見極め、それに応じて、時には狡くもなる。
弱い者が生きていくには、そうした狡猾さも必要なのだと、ぼくは強く思うのだった。
そこまで考えて、ぼくはすっと息を吸い込む。
そうだ……ぼくの行いは正しくもないけれど、かといって恐ろしく見当違いというわけでもない。矛盾しているけれど、おそらくきっと世界とはそういうものだ。
優しそうに近所の子供たちに接し、一方で大人たちからも好かれているおばさんが、裏では子猫の虐待を趣味としていた話を思い出す。どっちが本当の彼女で、真の表と裏とは何なのか。そんな風な事柄さえも定かでないこのあべこべな世界で、少しくらいズルをしたって、誰もぼくを責めたりは出来ないはずだ。
この目の前の女にしても、そう。
ぼくたち善良な市民が、その日の食にも困るかもしれない生活をしているのに、その一方で自分たちは美味くて、豪勢な所持を平らげている。そんな傲慢ちきが不幸の階段を転げ落ちて、そこから零れ落ちた奇跡を拾い上げて、何が悪いのか。
因果応報という物である。ようやっと、ぼくたちにも運気が向いてきたと思った。それなのに、この女は図々しくも、それを返せと迫って来る。お金にも食にも困らない死者の分際で。そう……“死者の分際で”。
途端に怒りが湧いて来る。そうだ、見当違いな事をしているのはこの女の方だ。宵も深まって来た頃に、ずかずかと人の家に勝手に上り込んで来て。その上、指輪も返せだと?冗談じゃないね。
「……だけど、そうは言っても、もう貴女には必要ない物じゃないか」
口調を強めて、ぼくは女を睨みつける。
作品名:幸福の指輪 作家名:逢坂愛発