幸福の指輪
普通に考えて、少しでも長生き出来る可能性が出てきたのなら、誰だって嬉しいはずだ。そんなのは、分かり切っていることのはずなのに、どこか不安で仕方ない。
ぼくは、思わず指輪を握りしめる。
「手術のためのお金が出来た」そう言ったらきっと母さんは 、喜んだ後に「お金はどうしたのか」と聞いてくるに決まっている。
その時、自分は何と答えれば良いのだろうか。
浜辺の水死体から抜き取ったなんて、そんなひどい事を正直に話せるわけもない。
良い知らせのはずなのに、どこか胸を締め付ける感覚が離れないのは、おそらくきっとこのためだ。
真っ直ぐな気持ちでいることが出来ないのは、これが誰かからの略奪で、それがいけない事だって心のどこかでしっかりと認識しているから。
病床の母に、こんな背徳的な事を告白する気にはなれなかった。自分のために、息子がそんな事をしたと知ったなら、母さんはぼくをどう思うだろうか?
「そうまでして、自分のために?」
母さんは泣いて喜んでくれるだろうか。いや……おそらくきっと、違う。
母さんは自分を責めるだろう。自分が病気になってしまったために、息子はこの様な愚行に走ってしまった……と。
母の心は、少しでも安らかにあってほしかった。ただでさえ、気分は雲っているだろうに、そこに追い打ちをかけるなんて事はしたくない。
ここは、本当の事を話すのは止めておこう。たとえ、嘘だったとしてもそれが優しさだ。
優しい嘘は、悪じゃない。そう自分に言い聞かせる。
母さんの寝室に行くには、一旦リビングを経由する必要があった。明かりの灯らぬ部屋の中を通って、奥にある扉の先の母さんの寝室へと向かう。
扉をコンコンとノックすると、中から「お入り」と声が帰って来る。
部屋の中に入ると、ベッドに横たわる母さんが再び「お帰りなさい」と声をかけてくる。
「ただいま」とぼくも一言口にして、母さんの近くへと寄った。
「今日もお仕事、お疲れ様ね。ショウ」
ぼくの顔を見上げて、母さんが口にする。心なしか、やはり少しずつ体が細くなっている様に見えた。顔色は悪くないものの、やはり気がかりである。
「お前にばかり苦労かけて、本当悪いねえ」
ベッド上の母が、申し訳なさそうに口にした。こういった言葉を聞くたびに、胸が痛む。
「良いよ、別にそんな事」
言いながら、ぼくはニコリと笑みを浮かべた。家族なのだ。助け合うのは、当然の事。
「配達の仕事だって、ぼくそんなに嫌いじゃないし」
ぼくが言うと、母さんもニコリと笑った。
ぼくの仕事は、基本的に郵便局の手紙や荷物を送り届ける、配達員なのだけれど、正直言ってあまり給料は良くない。日々の生活の中でもギリギリだ。だけれど、子供のぼくがつける職業といったら、そのぐらいしかなく、お金がもらえるだけ儲けものと思わなくてはならない。
「調子はどうだい?」
ぼくが問いかけると、母さんは安心させるように微笑んだ。
「悪くないわよ。お医者様のお薬が効いているのかしらね」
しかし、そうは言っても日に日に母さんの体は衰弱して行っている。結局のところ、あの医師がくれた薬だって気休め程度にしかなっていない。それでも尚、ぼくのために強がってみせる母が、やはり少々痛々しかった。
「そう―なら良かった」
ついつい、口ごもりそうになってしまい、すんでの所で言葉を紡ぐ。
「母さんも、早いところ体を治さないとねえ……お前にばかり、無理はさせられないわ」
重々しい口調で、母さんが言葉を口にする。
こんな状態になって尚、ぼくの事を気遣う母さんの優しさが、嬉しくもありまた同時に哀しくもあった。
「だから、良いって別にそんなこと……」
ぼくが口にすると、母さんは「良いことなんてありません」とピシャリと言い切る。
「ねぇ、ショウ……」
母さんがぼくの顔を見つめて、悲しげに顔を歪ませる。
「お前はまだ、子供なのよ。いくら背伸びをして見せたって、お前はやっぱりまだ幼い。こんな重い事を背負うには、早すぎるわ」
心苦しそうに言う母の言葉に、ついぼくは俯いてしまう。
「……重くなんてないよ」
どう、口にするべきか言葉を探して、やっとの思いで絞り出す。
「重くなんて……そんな風に全然思ってない。むしろぼくは、そんな風な事を母さんが口にする方が悲しいよ……」
唇を噛みしめて、ぼくは母さんの顔を見つめる。
「ねぇ、母さん……。こんな時くらいは、どうかぼくを頼ってほしい。お願いだから、そんな風な事は言わないで……。別に、重くも何とも思ってないから……ぼくはただ、母さんを助けてあげたいだけで……」
そこまで口にして、一旦ぼくは言葉を切る。
母さんもまた、ぼくの様に、唇を噛みしめて、俯いていた。
「あのね……母さん」
少しでも、母を元気付けたくて、ぼくは出来るだけ温かな声になる様心がける。
「母さんは、まだぼくの事子供扱いするけれど……だけどね。子供以前に、ぼくは母さんの家族なんだよ。たった一人の家族……助け合うのは、当然じゃないか」
ぼくが言うと、母さんは堪えきれなくなった様に涙を零した。
「嗚呼、ショウ……まったくお前は」
ぼくは、そっと母さんの手をとって、語りかける。
「ねぇ、母さん……安心して。きっともうすぐ、何もかもが良くなるよ」
具体的にどういう事かは言わなかった。ただ、詳しくは言えないまでも、母さんには少しでも心安らかでいてほしいから。
母さんの方も、何も尋ねはしなかった。
ただ、その身を起こして、ぼくを抱きしめて、「ありがとう……ありがとう……」と母は言葉を零し続けるだけ。
その温もりを感じながら、ぼくは命の儚さを思ったのである。
「大丈夫……母さん。大丈夫だからね……」
そう口にしながら、ぼくは嗚咽を漏らす母さんの背中を、そっと擦り続けた。