幸福の指輪
大切な人
もしかすると、自分はとんでもない事をしてしまったのかもしれない。死んでいる女の人から、指輪を……あれだけ贅沢な品だから、さぞや大切だったろう……それも薬指にしていたそれを……自分は盗んでしまった。
正義に背く行いをしたのだ……当然、警察を呼べることもなく、結局、その場を駆け去ってしまった……。
だけど、仕方がない。自分はもう、これに縋るしかないのだから。
死体の指に指輪を見つけた時、運命じゃないかと思った。慈悲深い神さまが、哀れなぼくらに与えてくれた、救いの手なのじゃないかと。
すぐにでも、お金が必要だった。母さんのために、すぐにでも大きなお金が。
温かで、優しい母の笑みを思い出すと、胸がぎゅっと締め付けられる様だった。
ぼくの名前を呼んで、優しく頬を撫ぜてくれた母さん。そんな母さんの命が、もうすぐ消えてしまおうとしている。
世界とは、何と無慈悲なのだろうと思った。
ぼくが生まれてすぐに父が死に、それから母は一人でぼくを育ててくれた。大変だったろうに、ぼくの前ではいつも笑顔を絶やさずに、何かあるたびに、そっと頬を撫ぜて抱きしめてくれて―。
決して裕福なわけじゃなくて、生活も楽じゃなかったけど、それでも幸せだった。
どんな事があったって、二人一緒なら生きて行ける気がした。
だけど、それなのに……。
ぼくは、目に見えぬ悪意に怒りと悲しみを覚えて、爪が食い込むほどに拳を握りしめた。
今まで、悪いことはしていないつもりだった。母さんだって、いつも困っている人の味方だった。決して、悪人じゃないはずなのに。……どうして世界は、こんなにも残酷な仕打ちをするのだろう。
母さんが、病に倒れたのは、あまりに突然の出来事だった。
いつもの様に、家で二人で話して、夕飯のシチューを一緒に啜って……突然、母さんは倒れた。
何が起きたのか分からなかった。あまりにも突然過ぎて。お芝居でも見せられている様だった。
にこやかに笑っていた母さんが、まるで操り人形の糸が切れたみたいにくしゃっと……床に倒れた。
「これはまた、稀に見る難病ですな」
倒れる母さんを見て、初老の医師はそう言った。
「恐ろしい病気です。もう、先も長くないでしょう。お気の毒です」
一見人の良さそうに見えたその老医師は、淡々とした表情で、冷酷に告げた。動揺なんてどこにもなくて、大切な命が目の前で消えかけているのに、それをさも当たり前かの様に。
目の前が真っ暗になった。
「母さんは……助からないんですか」
ぼくが問うと、老医師は「ふーむ」と顎に手をやり唸った。
「手術という方法なら、まぁ可能性はゼロではありませんがねぇ……」
なら、助けてください。お願いします。
ぼくが懇願すると、老医師は残念そうに頭を振るった。
「しかし、それにしたって難しいのです。手術というのは、一度の処置に莫大な額の金がかかる。それを、あなたは払えるのですか?」
医師は、冷たい目でぼくを見据える。
払えるわけない……そんな事は分かり切っている事のはずなのに、改めて問う医師が、ぼくにはとても残酷に思えた。
「じゃあ……じゃあどうすれば良いのですか」
こみ上げる嗚咽を押し殺しながら、ぼくは縋る様な思いで医師に問うた。
「安静にしている事ですな」
きっぱりとした口調で、医師は言う。
「そうすれば……安静にしていれば、母さんの容体は回復するのですか?」
ぼくが問うと、医師はうんざりした様に頭を振るった。
「良いですか、君。気の毒だとは思いますがねぇ、世の中にはどーうしても避けられぬ事というのがあるのですよ。そういった出来事に対しては、黙って耐えるしかないのです」
「そんなのは……ひどいです」
もはや、涙を堪えることは出来なかった。
「ぼくから、母さんを取らないでください……ただ一人の家族なんです」
今にも崩れ落ちてしまいそうな絶望の中で、ぼくは必死にしがみついた。
「手術に賭けてみる事ですな。それ以外には方法がありません」
「でも……だけど、手術はお金がないとダメだって……」
嗚咽を漏らしながらぼくが言うと、医師は「やれやれ……」と肩をすくめてから、言った。
「それはそうでしょう、当たり前です。手術というのは、人手もかかれば金もかかる。楽な事じゃないんです。これでも、わたしたちはギリギリの中でやっている……理不尽に思うかもしれませんが、これが現実なのです。少しお母様が楽になる様にお薬をお出ししましょう。わたしに出来ることはこれだけです。これだけでも精一杯の誠意と受け取っていただきたい。どうしてもお母様を助けたいのなら、お金を借りるなり何なりして、手術のための費用をお作りなさい。とても大変な事ではありますが、背に腹は変えられないでしょう」
そう口にすると、薬の瓶を置いて、医師は帰って行ってしまった。
希望が遠のいていく絶望。
一般の人でさえ出費に苦労するそのお金を、自分たち貧乏人にどう出せというのか。
あまりにも、ひどい話だった。人の命をお金でやり取りするなんて。
しかし、それしかないのならそれに縋るより他にない。
僅かでも、母さんが生きる希望があるのなら、それに賭けるしかなかった。
―だけど、そうは言ってもやはり現実とは残酷な物。
友人家族や知り合いに声をかけてみたけれど、返してもらえる宛がないと思われたのか、誰もぼくたちにお金を貸してはくれなかった。どれだけ泣いて頼んでも、皆気の毒そうな顔をするばかり。
「自分たちのお金は、自分たちで工面するしかない」
そう言われても、ぼくの稼いでいるお金では、生活するだけでもギリギリだ。
もう、どうしようもないじゃないか……そう思い、悲しみに暮れていた時に、ふと目の前に現れた希望の光。
ぼくは、女の指から抜き取った指輪を、大事に握りしめて、それを見つめた。
この指輪を売れば、きっと大きなお金が手に入る。そのお金があれば……母さんの命を助ける事が出来る。
嬉しくて、仕方がなかった。舞い上がってしまうほどの喜び。
ぼくは、そんな感情を抑えることなど出来ずに、跳ねる様にして我が家へと向かった。
どこか暗い雰囲気の漂う住宅街をスキップで駆け抜けると、徐々に徐々に家の輪郭が見えてくる。
ぼろっちくて、質素だけれど、とても愛しい我が家。世界で一番、心安らげる場所。
『ルルウェン』
と書かれた申し分程度の表札にちらりと目をやり、逸る気持ちを抑えて、ゆっくりと玄関扉を開く。
「ただいま」
扉を潜りながら声をかけると、一瞬置いて「おかえりなさい」という温かな声が帰って来た。
廊下を歩きながら、指輪を握りしめ、ぼくは唇を噛む。
幼い頃にサプライズでプレゼントを渡そうとして、その前に何とも気恥ずかしくなってしまうあの感じを、ぼくは思い出していた。
母さんは、これを聞いて喜んでくれるだろうか?
リビングへと続く、暗い廊下を歩きながら、ぼくは考える。